【広報コラム】「雁多尾畑(かりんどおばた) 光徳寺(こうとくじ)」(2025・6)

公開日 2025年5月27日

 本市東部、標高200mほどの雁多尾畑地区に、照曜山(しょうようざん)光徳寺があります。昨年度から、歴史資料館では、大阪歴史博物館 大澤研一館長と共同で、その総合的な文化財調査を実施してきました。
 光徳寺は、聖徳太子以来の仏教文化が息づく大和川沿いの龍田古道に近く、また、生駒・金剛の山やまを往来する修行僧や修験者(しゅげんじゃ)が往来したこの地に、平安時代中期、円融(えんゆう)上皇の勅願寺(ちょくがんじ)として開創され、その後、時を経て、信しぎさん貴山の毘びしゃもんてん沙門天の霊夢を得て当寺を再興した信乗(しんじょう)(俊円(しゅんえん))が親鸞(しんらん)の弟子となり、真宗寺院として成立したと縁起にみえます。中世以来、教学の拠点として『歎異抄(たんにしょう)』などの 聖教類(しょうぎょう)(経典や高僧の言葉をまとめたもの)が書写・集積され、現在も日本屈指の質・量をほこります。
 八代 乗順(じょうじゅん)のとき、本願寺の蓮如(れんにょ)が大坂に坊舎を構えると、光徳寺は当地に支坊(難波宮跡(なにわのみやあと)の南方)を得て、やがて本願寺教団を支える重要な存在となりました。その後の戦乱(石山合戦)で織田信長に明け渡すことになりますが、光徳寺、そして真宗の門徒らは大坂残留を許され、天下人 豊臣秀吉の大坂城下町で活躍を続けます。彼らこそ、淀川・大和川の沿岸や大阪湾岸を開発し、また、商いを手広く行なって、現在に続く大阪のまちを構築した立役者と言える人びとです。
今年度の歴史資料館夏季企画展では、開基 信乗750回忌の節目の年にあたって、光徳寺の貴重な宝物を特別に多数展観します。この機会に、ぜひご覧ください。

光徳寺の山門

▲ 光徳寺の山門

(2025年6月号掲載) 

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