公開日 2025年8月25日
秋の企画展は、例年どおり大和川のつけかえについて考える展示です。
天和3年(1683)に、幕府は「大和川のつけかえは絶対しない!」と決めました。その後、つけかえを求める運動は、水が流れやすくなるような工事を求める運動に変わり、運動に参加する村もどんどん減っていきました。みんながつけかえを諦めてしまった頃、元禄16年(1703)に幕府は急につけかえることを決めました。それまでの方針を転換してつけかえを進めた中心人物は、大和川と淀川を管理する堤奉行を務めていた万年長十郎だと考えられます。
万年は幕府領を支配する代官でしたが、元禄11年(1698)頃に堤奉行を兼務するようになりました。その頃幕府は財政難に悩んでおり、なんとか大和川つけかえ工事が幕府に利益をもたらす工事にできないかと考えていたようです。そして、旧川筋にできる新田の土地代金の金額だけつけかえ工事費を負担し、足らない分は大名に負担させることにしました。こうすれ
ば、幕府の負担がほとんどなく工事を実施することができ、新田から年貢が毎年入ってくることになります。多額の費用が必要になると考えていたつけかえ工事を、幕府に利益をもたらす工事としたのです。
万年長十郎に関する記録は、あまり残っていませんが、どんな人物だったのか、少しでも迫ってみたいと思います。
▲ 庭井新田の年貢額を決めた文書。万年長十郎と息子の門次郎の名が見える。
(2025年9月号掲載)