公開日 2025年9月1日
大和川の付け替えを求める運動は、万治2年(1659)ごろから始まりました。付け替え運動の中心人物は、芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛だったようです。付け替えて欲しいという嘆願書が提出されると、幕府は付け替えが必要かどうか、実際に工事ができるかどうか、などを現地で調査しました。これを検分(見分)といいます。幕府の最初の付け替え検分は、万治3年(1660)に実施されています。その結果、付け替えは見送り、川底の掘り下げ、山への植林などで洪水は防げるとしました。その後も、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)と計4回の検分が実施されましたが、いつも結論は同じで、付け替えは見送りとなりました。幕府の付け替え検分は5~6年ごとに実施されていたことがわかります。付け替えを求める訴えが提出され、検分を実施し、付け替え見送り。その2~3年後にまた洪水。また訴え、検分、見送りが繰り返されていたのです。
そして、5回目の検分が天和3年(1683)に実施されました。この検分は3か月もかけて畿内一円を調査するという大規模な検分でした。その結果、幕府は付け替えの必要はないと結論づけました。検分に同行していた河村瑞賢の意見を取り入れ、淀川河口の流れをよくすれば、淀川に流れ込む大和川の流れもよくなると考えたのです。そこで、翌年から河村瑞賢が安治川の開削など淀川河口の工事に着手することになりました。
瑞賢の淀川改修工事が終わった貞享4年(1687)1月ごろに、また付け替えの嘆願書が提出されました。この嘆願書に対する幕府の回答は残っていませんが、幕府は相当厳しい答えを返したようです。嘆願書が提出されたにもかかわらす検分が実施されていないこと、その年の3月にはつけかえをあきらめて治水工事の嘆願書が提出されていること、などから幕府の対応がわかります。当然でしょう。幕府は付け替え不要と決定し、そのために淀川河口の工事を実施していたのですから。
(安村)
堤切所之覚附箋図