公開日 2025年9月8日
貞享4年(1687)1月ごろに提出された大和川の付け替えを求める嘆願書以降、実際に大和川が付け替えられるまで付け替えの嘆願書が提出されることはありませんでした。それほど幕府の付け替え不要が徹底していたということでしょう。
同年3月の嘆願書では、工事で破壊された堤防の復旧や、一部の川幅拡張などを願い出ています。付け替えをあきらめて治水工事の実施を求めるように運動を変更したようです。嘆願に参加する村も15万石から7万石に減っています。それ以降も嘆願はたびたび出されていますが、いずれも治水工事を求めるもので、付け替えには触れていません。元禄2年(1689)の嘆願書では、参加する村も3万石とさらに減っています。
幕府の付け替え不要という方針に逆らうことができず、治水工事を求める運動へと変わり、しかもわずか2年ほどのあいだに参加する村が当初の20%くらいまで減っていたことがわかります。この運動の中心人物が中甚兵衛だったようです。中甚兵衛が運動を進めるようになってから、運動は衰退していったことがわかります。また、甚兵衛のもとに残された文書には、元禄2年以降の嘆願書がありません。おそらく、元禄2年の嘆願書が大和川治水工事を求める最後の嘆願書だったのでしょう。付け替えだけでなく、治水工事を求める運動も終息していたと考えられます。
ところが元禄13年(1700)・14年に、またもや大規模な洪水が大和川流域を襲いました。14年には、甚兵衛の河内郡今米村では収穫がなかったといいます。これを視察に来た堤奉行の役人に、42か村で堤の修復工事などを求めたところ、付け替えを検討していると知らされたということです。付け替え不要を徹底していた幕府が、付け替え運動も終息しているのに急に付け替えを持ち出したのです。
どうやら元禄11年ごろに堤奉行に着任した万年長十郎が、大和川の付け替えを模索していたようです。洪水対策は当然ですが、それだけでなく、この付け替え工事を財政難にあえぐ幕府に利益をもたらす工事にできないかと画策していたようです。新田開発に関わる町人や甚兵衛らの意見も取り入れて考えた結果でしょう。このあと、その万年長十郎についてみていきたいと思います。
(安村)
付け替え嘆願書(貞享4年)