【コラム】大和川つけかえと万年長十郎 (4)万年長十郎とは

公開日 2025年9月16日

 万年氏は、文治年中(1185~90)に北面の武士として後鳥羽上皇に仕え、万年(萬年)の称号を得たと伝えられています。承久の乱(1221)のあと、遠江国榛原郡川尻村(静岡県榛原郡吉田町)を拠点とするようになったということです。その後、幕府領の代官として遠江国を支配するようになり、代官職を世襲しています。
 万年長十郎は、正保4年(1647)に、代官万年七郎左衛門忠頼の二男として生まれました。頼治ともいいます。延宝2年(1674)10月26日、幕府勘定所の役人である勘定として採用されました。この年は32人もの勘定を採用しています。それは、延宝5年(1677)に予定されていた検地を実施するためです。それまでの検地は、古くから現地を支配していた代官などが検地を実施していたのですが、厳密な検地を実施するため勘定が現地で監視し、周辺諸藩の大名などが検地を実施するように改めるために勘定を大量に採用したようです。これ以降、延宝検地の方法が踏襲されることになりました。
 延宝検地を終えた長十郎は代官となりました。延宝5年4月に関東の代官となり、下総・安房・下野国などを支配しました。その際に、下総国椿海の新田開発(椿新田、千葉県東庄町・匝瑳市・旭市)に関わっています。これが長十郎にとって、初めての新田開発との関わりですが、これ以降、長十郎は新田開発を積極的に進めることになります。
 天和3年(1683)5月には、松村吉左衛門時長のあとの大坂代官に着任しました。大和・摂津・河内・播磨・備中国などで68,600石余りを支配することになります。元禄5年(1692)には狭山の西山新田の開発に従事し、同じ代官であった小野朝之丞とともに検地を実施しています。
 そして元禄11年(1698)ごろに、小野とともに摂津・河内の河川管理を担当する堤奉行となりました。同年には河村瑞賢が実施した淀川改修の2期工事に伴って、大坂川口の新田開発を担当しています。これらの実績が認められたのか、元禄14年には5,000石が加増されています。そして、大和川付け替えへと動いていきます。
 万年長十郎は、正徳5年(1715)3月1日になくなっています。69歳でした。そのあとは二男の門次郎が継ぎ、門次郎も代官となっていますが、門次郎の子が早逝し、長十郎の家系は門次郎が亡くなった享保18年(1733)で途絶えたようです。

(安村)

摂津国住吉郡庭井新田当卯御年貢可納割付之事

「摂津国住吉郡庭井新田当卯御年貢可納割付之事」(正徳元年・1711)柏元家文書

 庭井新田が納めなければならない年貢の高を示した文書。万年長十郎と息子の門次郎の名と印がみえる。庭井新田は依羅池(味右衛門池)の跡に、付け替え後に開かれた新田。柏原村の柏元家が所有していた。
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