公開日 2025年9月22日
下総国に椿海(つばきのうみ)と呼ばれる東西12㎞、南北6㎞もある大きな湖がありました。現在の千葉県北東部、太平洋に近い東庄町・匝瑳市・旭市にあたります。江戸時代前期は各地で新田開発が進められましたが、この椿海を干拓して新田にしようと考える人たちもいたようです。
寛文年間(1661~73)に、江戸町人の白井次郎右衛門が幕府に干拓願を出しています。しかし、代官であった伊奈半十郎忠常は検分のうえ、許可を出しませんでした。白井は、幕府の大工棟梁であった辻内刑部左衛門とともに、寛文9年(1669)に改めて干拓を願い出ました。この嘆願は、幕府勘定頭の妻木彦右衛門と書院番の伊奈五兵衛の検分を受け、許可がおりました。代官の関口作左衛門と八木仁兵衛が普請奉行となり、実際の工事は白井と辻内が実施することになりました。まず排水路の掘削にかかりましたが、資金難などから白井が撤退することになり工事は中断、辻内は江戸材木商人の野田屋市郎右衛門と栗本屋源左衛門の参加を得て、幕府も6,000両の資金を補充して工事を再開しました。
しかし、次々と問題が起こります。椿海の水を農業用水としていた浜寄りの13か村の反対運動があり、用水確保を迫られます。さらに排水路のルート変更、工事中に濁流が排水路をあふれて下流の7か村に死者まで出す大きな被害を与えるなど、下流の村々に深刻な影響を与えることになりました。
これに対して、溜井をつくって周辺の台地に水を確保し、湖の周囲に惣堀を掘って水路をめぐらして新田と周辺村々の用水とすることになりました。幕府も6,343両を追加で出資し、溜井と惣堀は延宝元年(1673)に完成しました。翌年には新田の売却が始まり、入植も始まりました。幕府は1町歩につき5両、2,500町歩あったので12,500両の収入となり、2回にわたる出資金を改修できました。また、開発請負人である辻内、野田屋、栗本屋3名に不正があったとして幕府は3名の土地約1,200町歩を没収して元禄3年(1690)に入札で販売しています。元禄8年(1695)には新田の検地が実施され、高24,441石、18の新しい村が生まれています。
万年長十郎は、この間延宝5年(1677)から天和3年(1683)までこの地の代官を勤めていました。新田の売却や検地を担当していたと考えられます。史料としては、延宝8年、天和2年の年貢割付状に長十郎の名と印がみられます。
(安村)
椿海の位置