公開日 2025年9月30日
関東の代官であった万年長十郎は、天和3年(1683)に松村吉左衛門時長に替わって大坂代官となりました。大坂の鈴木町代官所の南側に新しい代官所が設けられ、そこに入ることになりました。現在の大阪市中央区内久宝寺町にあたります。
代官として大和、摂津、河内、播磨、備中などの幕府領を支配し、元禄15~16年ごろには68,600石余りに及んでいました。狭山西山新田(大阪狭山市西山台ほか)の開発にも関わり、元禄5年(1692)に15石余りの新田が完成し、検地を実施しています。元禄6年(1693)には大坂城西之丸、玉造米蔵や難波橋の修復奉行を務めています。元禄10年(1697)には備中矢掛(岡山県矢掛町)に出張陣屋を置き、元禄14年には備中だけで11,725石を支配していました。
元禄11年ごろに、代官小野朝之丞とともに、摂津・河内の堤奉行を兼帯することになりました。淀川と大和川の維持管理の担当となったのです。長十郎と大和川との関係はここから始まります。元禄11年は、河村瑞賢が淀川河口の2期工事に着手した年です。4・5月には工事に先立って大坂川口の新田開発希望者を募っており、工事中の8月には新田の請負人が決まっています。翌年2月に工事を終えた瑞賢は、江戸に帰って間もなく6月に亡くなっています。元禄15年には、長十郎と小野が新田の検地を実施し、約450町歩、4,000石の新田となっています。このころ、貞享4年(1687)に出された町人請負新田を原則禁止とするという触れがありましたが、川口新田では多くの町人が請負人となっていました。大規模な新田開発には町人の力が必要だったのでしょう。このとき開かれた新田は、中島、出来島、市岡、泉尾、春日出、酉島、西島、津守、恩貴島、西野、百島、蒲島新田で、今も地名を残している新田が少なくありません。
万年長十郎の経歴を見ていると、新田開発との関わりがはっきり見えてきます。このころ幕府は財政難に陥っており、新田開発による土地代金やその後の年貢徴収が幕府財政再建に貢献できることを実感していたことでしょう。それが、大和川付け替えを考える大きなカギとなったことは間違いないでしょう。
(安村)