公開日 2025年11月4日
元禄16年(1703)4月の大和川付け替え検分の際に、中甚兵衛も同行していました。甚兵衛はそれ以前から万年長十郎に呼び出され、意見を求められていたようです。おそらく長十郎は町人らの意見も聞いていたと思います。町人や農民の意見も聞いたうえで、どのように付け替え工事を実施し、旧川筋の新田開発を実施するかと考えていたのでしょう。
旧川筋の新田開発には、菱屋や天王寺屋などの町人も参加しています。原則として町人の新田請負は禁止されていたのですが、幕府も少しでも高く新田の地代金を得るために、そんなことに拘っている場合ではなかったのでしょう。しかし、新開池という広大な面積を開発することになる鴻池は新田の入札には参加していませんでした。新開池を落札したのは大坂京橋の大和屋六兵衛と中垣内村庄屋の長兵衛でした。その後、この二人から2倍近い金額で鴻池が買い取っています。これを幕府は黙認しています。町人の開発が原則認められていないなか、これだけの面積を鴻池に開発させることに抵抗があったのではないでしょうか。そのため別の人物に落札をさせ、その後鴻池が買い取るというかたちを幕府も認めたのではないでしょうか。おそらく、入札以前から決まっていたのでしょう。この転売には中甚兵衛も関わっていたようです。新田開発を順調に進めるために、町人や甚兵衛らの意見を取り入れて調整していたようです。
新田は年貢免除の3年を過ぎると検地が行われ、その翌年から年貢の徴収が始まります。旧川筋の新田では、宝永5年(1708)に最初の検地があり、年貢額が決められました。ところが、以前から開発されていた新田の一部の所有者らが検地の再実施を求め、享保6年(1721)に再検地されています。この検地によって、ほとんどの新田の面積が10%程度増加しています。川筋に開かれた新田なので、面積が増えているはずはないのです。また、田畑の等級がほぼ1段階ずつ上がっています。開発から十数年になり収穫が安定してきたこともあるでしょうが、宝永5年の検地が甘かったのではないかと推測されます。多くの新田で、石高が1.6倍程度になっており、年貢の負担が急に重くなっています。
宝永5年の検地の際には、万年長十郎によって多少手心が加えられていたのではないでしょうか。無事に大和川付け替え事業を終わらせるために、町人や農民らとの対立を避けようとしていたのではないかと思われます。
(安村)

旧大和川筋に開かれた新田