公開日 2025年10月28日
江戸時代の初めには潤沢だった幕府の財政は、明暦の大火による江戸城再建や大名屋敷移転などを経て17世紀中ごろから窮乏し、元禄年間には危機的な状態に陥っていました。延宝2年(1674)に勘定となった荻原重秀は、その後幕府財政の立て直しに取り組むこととなります。勘定所は、今でいえば財務省のような役所で、幕府の財政を握っていたところです。ところで、延宝2年には32人が勘定として採用されたのですが、前述のように万年長十郎もその一人でした。つまり二人は同期だったのです。年齢は長十郎のほうが11歳年上ですが、荻原は相当優秀な人物だったようです。
延宝5年(1677)に検地が実施され、その貢献が評価されて頭角をあらわし、天和3年(1683)に勘定組頭、貞享4年(1687)には勘定吟味役と信じられないスピードで出世していきます。元禄3年(1690)には佐渡奉行を兼務することになり、悪化していた佐渡金山の生産回復を図ります。元禄4年には本人も佐渡へ下っています。
そして元禄8年から貨幣の改鋳を実施しています。金銀の含有量を減らした貨幣を鋳造し、その差額で増収を図ったのです。具体的には金の含有量が85%ほどの慶長小判を回収して溶かし、57%ほどの元禄小判を作るのです。そうすれば、安価に多数の小判をつくることができます。これによって物価の高騰などを招き、社会は混乱しましたが、幕府の増収は実現できました。元禄9年には勘定所トップの勘定奉行となった荻原重秀ですが、その強引な政策には批判も多く、正徳2年(1712)には新井白石の弾劾書により勘定奉行を解任されています。
大和川付け替えのころ、荻原重秀は勘定奉行として幕府の財政を掌握していました。そして、幕府財政立て直しのため、次々と改革を実行していました。万年長十郎も幕府の財政立て直しに真剣に取り組んでいたようです。そして新田開発による年貢増収が大きな効果があると考えていたのでしょう。そこで、大和川付け替えを、幕府の利益を生み出す事業として実施できないかと考え、おそらく荻原重秀に提案していたのでしょう。役人としての格はまったく違いますが、同期でもあり、同じ目的を持っている二人には通じるものがあったのではないでしょうか。
(安村)

佐渡金山・道遊の割戸