【コラム】大和川つけかえと万年長十郎 (8)大和川付け替えへ

公開日 2025年10月21日

 前回の「舟橋村絵図」の検討などから、万年長十郎が大和川の付け替えを検討し始めたのは、堤奉行に就任した直後からだったのではないかと考えられます。新田開発が幕府に利益をもたらすことを熟知していた長十郎は、堤奉行就任前から大和川の付け替えを幕府に利益をもたらす事業にできるのではないかと考えていたのではないでしょうか。そして堤奉行に就任するとすぐに新川ルートの検討、旧川筋の新田開発による収入の試算、大和川付け替え工事費の試算などを行い、新田の地代金でほぼ半分は回収できる、残り半分をどうして工面するかと考えたことでしょう。この残り半分は、実際には大名手伝普請で賄われました。大名を工事に参加させ、必要な費用を負担させたのです。この大名手伝普請を長十郎の判断で実行できるほど長十郎の権限はありません。幕府中枢の役人でなければ決められないのです。大名手伝普請の実施を考え出したのが誰なのかわかりませんが、おそらく勘定奉行の荻原重秀と万年長十郎のあいだで検討され、根回しされていたのではないかと思います。
 元禄13・14年(1700・01)に、またも河内に大洪水が起こりました。その視察に来た堤奉行の役人に壊れた堤の修復を願い出ると、付け替えを検討していることを知らされたということです。農民たちに打ち明けたところをみると、このころには付け替えはほぼ決定していたのでしょう。大名手伝普請の採用も決まっており、どこの大名に手伝いをさせるかと検討していたころではないでしょうか。
 元禄16年4月には、若年寄の稲垣重富、大目付の安藤重玄、勘定奉行の荻原重秀らが畿内と長崎の巡見に訪れ、4月6日には長十郎らが新川筋の検分を実施しています。若年寄らは、長崎からの帰りに再び大坂に立ち寄り、5月に長十郎らが考えている新川筋を検分しています。これで付け替えが最終決定したようです。幕府は10月28日に付け替えを正式に公表し、姫路藩に手伝いを命じています。万年長十郎の大和川付け替え計画は、幕府のつけかえ不要という決定を覆し、着々と進められていたようです。しかし、河村瑞賢が存命だったなら、徹底的に反対したことでしょう。瑞賢が亡くなっていたことも進めやすかった理由の一つでしょう。

(安村)

川違新川図

川違新川図

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