公開日 2025年10月7日
万年長十郎が、大和川付け替えを考え始めたのは、いつごろなのでしょう。実際にはわからないのですが、元禄11年ごろに堤奉行となったころからだったのではないかと考えられる史料があります。舟橋村(藤井寺市船橋)の庄屋を務めていた松永家の史料に、「河州志紀郡舟橋村絵図」があります。この絵図には作成年が書かれていないのですが、「辻弥五左衛門代官所」とあり、「此絵図寅ノ三月ニ上ケ候ひかへ」と書かれています。舟橋村の代官が辻弥五左衛門であったときの寅の年といえば、元禄11年だけであり、絵図の作成が元禄11年であることがわかります。
不思議なことに、この絵図は「舟橋村絵図」と書かれているにもかかわらず、舟橋村本村の北東にあった枝村である舟橋村新家の位置をくわしく書いているのです。たとえば「新家より古町迄弐拾三間半亥子ノ間」というように、周辺の村々と新家との距離、方位が書かれています。大和川の川幅も書かれています。ここに記されている新家の位置は、ちょうど大和川が付け替えられた地点にあたり、付け替えによって24軒の家があった舟橋村新家という小村がつぶれていることが初めてわかった絵図です。そこには24軒中23軒が水吞百姓であったと書かれています。水吞百姓とは、自分の田畑を所有していない百姓のことです。新家の位置は奈良街道沿いにあたるため、柏原村の今町や古町と同じように、街道沿いで商売をする家が多かったということでしょう。だから自分の田畑を持たない人たちが居住しており、水吞百姓と書かれているのです。
大和川付け替え地点にあった舟橋村新家についてくわしく記述された「舟橋村絵図」は、大和川付け替えを考えるための史料として作成を命じられたのではないでしょうか。その絵図の作成が元禄11年であることを考えると、堤奉行に就任した万年長十郎が作成を命じたのではないかと考えられます。おそらく、長十郎はそれ以前から大和川の付け替えについて考えており、堤奉行に就任してすぐに付け替えの検討に入ったのでしょう。街道沿いの枝村ならば影響は少ないと考え、新家の場所で付け替えができないか、付け替えた場合周辺村にどの程度の影響が出るのか、と考えたのではないでしょうか。
(安村)
河州志紀郡舟橋村絵図