【コラム】赤馬伝説(7)伯孫のたどった道

公開日 2026年5月14日

 それでは、古市郡の書首加竜の家から誉田陵の付近を通って飛鳥戸郡の家まで帰った伯孫は、どの道を通ったのでしょう。これは説話ですが、奈良時代以前に利用されていた道に基づいて記述されていると考えることは問題ないでしょう。
 まず、書首加竜の家の場所が特定できませんが、羽曳野市西琳寺付近と考えたいと思います。書首は西文氏で、彼らが中心となって建立したのが西琳寺でした。現在の近鉄南大阪線古市駅のすぐ東側にあたります。書首加竜が実在の人物かどうかはともかく、西琳寺付近を想定することに問題はないでしょう。
 次に誉田陵は、先述のように誉田御廟山古墳にあてて問題ないでしょう。とすると、西琳寺付近を出発した伯孫は、北に向かって誉田御廟山古墳の東へと進んだことがわかります。この道は、後の東高野街道に相当する道と考えられます。近世の東高野街道は、西琳寺の西から折れ曲がりながら北へ向かい、誉田八幡宮の東を通って誉田御廟山古墳の南東に至ります。伯孫は誉田御廟山古墳の後円部南東付近で赤馬に出会ったと考えられます。
 そこから今の道明寺、古代の土師寺付近を通り、市野山古墳(允恭陵古墳)の南東まで北もしくは北東に進んだと考えられます。そこで東高野街道は長尾街道と交わります。伯孫はここから長尾街道を東へ進み、石川を渡ると安宿(飛鳥戸)郡です。さらに東へ進んで玉手山丘陵の北、片山を通って原川を渡り国分に入ります。馬に乗っていれば、水量の少ない石川や原川は、橋がなくても渡れたでしょう。
 伯孫の家も飛鳥戸郡にあるというだけで、その所在地は明らかではありません。しかし、田辺史氏の本拠地は現在の柏原市田辺付近と考えられ、そこには田辺廃寺もあります。伯孫の家を田辺廃寺付近と考えると、国分から南へ進んで家へ帰ったことになります。明治の地図に、伯孫の通った道のだいたいのルートを示しておきます。
 古市から田辺へ向かうには、まっすぐ東へ向かい、玉手山丘陵を越えたほうが近道です。しかし、馬に乗り、しかも夜道であったため、東高野街道、長尾街道という平坦な道を通ったのでしょう。5世紀後半に東高野街道や長尾街道が存在したとは考えられませんが、古代寺院などの立地から、これらの街道に先行する道を古墳時代に想定することは可能でしょう。この道筋をとると、その距離は約5㎞。歩けば1時間余り、馬を急がせるともっと短時間で帰れたでしょう。それこそ、赤馬ならば一瞬の距離です。

 (安村)

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