公開日 2026年5月7日
すばらしい赤馬を自分のものにしたいと思った伯孫の気持ちを読み取って、赤馬の持ち主は馬を交換してくれました。馬を交換するという話も、『宋書』「五行志二四、牛禍」によく似た話があります。そこでは、自分の牛を青牛と交換しています。そして、「零陵の涇渓に至り、青牛の走り回るさまは、普通のものではなかった」とあります。馬と牛の違いはありますが、すばらしい能力をもつ牛と交換するだけでなく、御陵のもとを走り回るところまで共通しています。田辺史氏は、『宋書』についても知っていたのでしょう。
喜んで赤馬を走らせて帰った伯孫は、赤馬に秣を与えて眠ることにしました。翌朝、厩で見たものは埴輪の馬でした。そこに繋いでおいたはずの赤馬がいなくなっていたのです。不思議に思って馬を交換した誉田陵へ戻ってみると、昨夜まで伯孫の乗っていた葦毛の馬が、誉田陵の埴輪の馬の中に並んで立っていました。つまり、伯孫が手に入れた赤馬は、誉田陵の埴輪の馬だったのです。
この記述から、誉田御廟山古墳に立派な馬形埴輪が立て並べられていたと考えられます。そして、月夜に赤馬を乗り回していた人物は、応神その人と考えてもいいのではないでしょうか。誉田御廟山古墳は、墳丘長425mで大山古墳(仁徳陵古墳)に次ぐ大きさの古墳です。これまでに馬形埴輪も出土していますが、全形のわかるような資料はありません。いつの日か、赤馬伝説に結び付くような豪華な馬形埴輪が出土することを期待したいと思います。
『日本書紀』応神15年8月に、「百済王遣阿直伎、貢良馬二匹。」とあります。百済の王が、阿直伎(あちき)という人物を派遣して、良馬二匹を献上したのです。応神と赤馬の関係を、この良馬二匹を献上したという記録に重ねているのではないでしょうか。
その阿直伎を通じて応神は百済からすぐれた学者を呼び寄せました。それが王仁(わに)で、西文(かわちのふみ)氏(書首)の始祖とされます。田辺史氏は西文氏と直接の関係はありませんが、同じ百済系の渡来系氏族として、応神のときに百済から王仁が渡来してきたということや、良馬が献上されたことなどと、この赤馬伝説と無関係とは思えないのです。応神朝という時代設定も重要だったのでしょう。
このように、空想の絵空事のように思われる説話ですが、そこには田辺史氏の博識が披歴されています。さらに、百済系の渡来系氏族の優秀さが描かれ、それは応神朝に始まるという意識があったことも見てとることができるのではないでしょうか。
(安村)
平尾山古墳群太平寺第5支群1号墳出土馬形埴輪