公開日 2026年5月21日
「史(ふひと)」という姓(かばね、古代の称号)は、文筆・記録などに関係する職にあたることを示し、田辺史氏は、漢文の解読や中国・朝鮮半島の法令や記録などの知識をもっていたと考えられます。それでは、田辺史氏とはどのような氏族だったのでしょう。
古代の氏族の系譜を記した『新撰姓氏録』には、右京皇別と右京諸蕃に「田辺史」がみられます。右京皇別の田辺史は、「豊城入彦命の四世孫、大荒田別命の後なり。」とあり、右京諸蕃の田辺史は、「漢王の後、知惣(摠)自り出づ。」とあります。また、左京皇別の上毛野朝臣(かみつけぬのあそん)の項に、「百尊の男、徳尊の孫、斯羅が、皇極天皇の御世に河内の山下の田を賜い、文書を解したので田辺史となり、天平勝宝2年(750)に改めて上毛野君の姓を賜り、弘仁元年(810)朝臣の姓を賜った。」とあります。
また、『日本書紀私記』弘仁私記序の諸蕃雑姓記に、「田辺史、上毛野公(きみ)らの祖である思須美・和徳の両人が、仁徳朝に百済から帰化し、自分らの祖は貴国将軍上野公竹合なりと言った。」とあります。これらの記録が、どこまで信頼できるかという問題はありますが、田辺史氏が渡来系氏族であることは間違いありません。漢王ならば中国につながることになりますが、おそらく直接の系譜は百済と考えられます。
次に渡来の時期が問題となりますが、これも明確にすることができません。弘仁私記には仁徳朝とあり、『日本書紀』では雄略朝に伯孫が存在しているので、5世紀後半ごろに渡来していたことになります。私は、5世紀後半に王族の昆支らとともに百済から渡来した可能性が強いのではないかと考えています。当初は大県郡を拠点とし、6世紀後半に安宿郡に移ったのではないかと考えています。
実在が確認できる最初の田辺史は、『日本書紀』白雉5年(654)に判官として遣唐使に加わった田辺史鳥です。おそらく、史としての漢文の素養などが認められたためでしょう。7世紀中ごろから活躍が始まったとすると、『新撰姓氏録』左京皇別の上毛野朝臣の項にみられる「皇極天皇の御世」が現実味を帯びてきます。皇極の在位は642~645年です。なお、田辺遺跡や田辺古墳群の状況から考えると、6世紀後半に田辺の地に定着した集団が、7世紀中頃に遺跡南部へと集落を拡大したと考えられます。遺跡のあり方からも7世紀中ごろに飛躍的な変化をみてとることができ、文献史料に合致します。
ところで、上毛野朝臣の項に「河内の山下の田を賜い」とあります。これについて、門脇禎二氏は「河内山の下の田」と読み、「下」は安宿郡の「資母郷(しものさと)」と同じであるとしています。資母郷は田辺を含む国分一帯と考えられ、この地に田辺史が定着したのです。
(安村)
田辺周辺の遺跡