公開日 2026年5月28日
次に、7世紀後半以降の田辺史氏を見ていきましょう
田辺史大隅は山背国山科にあり、藤原鎌足の子、不比等を養育していたことが、『藤氏大祖伝』にみえます。おそらく田辺史氏は鎌足に見出され、そのもとで文筆活動を行っていたのでしょう。大津宮遷都に伴って田辺史氏の一部が山科に移り、その博識な知識によって不比等を養育していたのでしょう。不比等(ふひと)の名は、田辺史の「史(ふひと)」に由来するということです。
田辺史小隅は、壬申の乱(672)で近江方の別働隊長として戦って敗れました。鎌足に仕えてきた田辺史氏が近江方として戦ったのは、当然のことだったでしょう。小隅は大隅と同一人物と考える説もあります。別人としても、近い関係にある人物でしょう。
これによって、田辺史氏はしばらく不遇の時期を送ったと考えられますが、不比等の活躍によって復権するのは早かったようです。不比等は草壁皇子に仕えていたとされ、持統天皇にその才を認められました。これに伴って田辺史氏も復権し、田辺史百枝、首名が大宝元年(701)に制定された『大宝律令』の編さんに従事しています。安宿郡に建立された田辺廃寺の創建も7世紀末~8世紀初頭と考えられます。
また、聖武天皇の皇后となった光明子の幼名は安宿姫であり、安宿郡との関わりが考えられます。光明子は不比等の娘であり、光明子も田辺史の教育を受けていたのではないでしょうか。
その後、田辺史真人は造東大寺判官となり、このころ写経書の経師として多数の田辺史が参加しています。万葉歌人として田辺史福麻呂(さきまろ)も有名です。8世紀中ごろが氏族としての田辺史氏のピークだったと言えるかもしれません。
『続日本紀』天平勝宝2年(750)に、「中衛員外少将従五位下田辺史難波らが上毛野君姓を賜った。」とあります。この前後に田辺史の複数の人物が上毛野に改氏姓しています。『新撰姓氏録』の上毛野朝臣の項の記述も、これによるものです。田辺史難波は、神亀元年(724)征夷軍として東国で活躍していたようであり、その際に上毛野氏と交流があったことがきっかけではないかとされています。田辺史の一部が、渡来系としての田辺史よりも伝統的な上毛野氏として生きる道を選んだのです。伯孫を「努賀君(つぬかのきみ)の男、百尊」として、赤馬伝説とほぼ同じ内容が『新撰姓氏録』に載っています。
しかし、平安時代になると田辺史はほとんど記録に見られなくなります。田辺廃寺も、平安時代には小さな堂を残して廃寺となったようです。
(安村)
田辺廃寺西塔跡