【コラム】赤馬伝説(10)田辺史氏の遺跡

公開日 2026年6月4日

 田辺史の本貫地は、柏原市田辺付近、古代の河内国安宿郡資母郷と考えられます。そこには田辺の地名が残り、古代の集落遺跡である田辺遺跡、古代寺院跡の田辺廃寺、終末期群集墳の田辺古墳群、火葬墓群の田辺墳墓群などの遺跡が残されています。これらの遺跡は田辺史氏が残した遺跡と考えられます。
 田辺遺跡内には、5世紀代の古墳が数基ありますが、集落はなかったようです。集落は遺跡の北半、松岳山古墳群の南西付近の台地上に6世紀後半ごろに形成されます。7世紀になると大規模な鍛冶が行われるようになり、7世紀中ごろには遺跡の南半、田辺廃寺周辺へと集落が移動、拡大していると考えています。7世紀末ごろには田辺廃寺が創建され、8世紀も集落は続きますが、平安時代になると急速に衰退するようです。
 田辺廃寺は春日神社境内にあり、国史跡に指定されています。東西に二つの塔が並ぶ双塔式(薬師寺式)伽藍配置をとります。1971年に大阪府教育委員会が、金堂、西塔、東塔、南大門の発掘調査を実施していますが、講堂などは未確認です。
 金堂跡は東西17.80m、南北11.51mの瓦積基壇で、完全な形の平瓦を地覆(ふく)とし、完形や半分に割った平瓦を基壇周囲に積み上げています。西塔は東西10.32m、南北10.08mの規模の瓦積基壇で、完形の平瓦を2枚重ねて地覆とし、その上に半分に割った平瓦を積み上げています。心礎をはじめ礎石も良好に残っており、三重塔と考えられます。東塔は一辺10.19~10.27mの塼積基壇です。自然石を延石(のべいし)とし、その上にレンガのような塼(せん)を積み上げています。側柱の礎石が6個残っており、西塔と同じ規模の三重塔と考えられます。出土瓦などから、七世紀末葉~八世紀初頭頃に金堂・西塔が建てられ、やや遅れて東塔が建てられたと考えられます。
 田辺廃寺の東方南斜面では、7世紀前葉~末葉の19基の古墳から成る田辺古墳群があります。古墳は二基一対の造墓を繰り返していたようで、夫婦墓ではないかと考えられます。古墳群の西にある浅い谷を隔てて火葬墓が二基確認されており、古墳から火葬墓へ継続すると考えられます。火葬墓に使用されていた平瓦や塼が田辺廃寺使用のものに一致することから、田辺古墳群・墳墓群は、田辺史氏の有力者の墓地と考えることができます。
 百済から渡来した田辺史氏は、優秀な文筆能力で官人として活躍した氏族です。その本貫地が明らかであるだけでなく、集落や古墳、古代寺院まで推定できるという良好な環境にあります。古代の氏族研究という視点からも、今後も田辺史氏の研究を進めなければならないと考えています。

 (安村)

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