【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (1) 聖武朝難波宮の造営

公開日 2026年6月18日

 『続日本紀』の神亀3年(726)10月7日、聖武天皇は播磨国印南野(いなみの)に行幸し、10日に邑美(おみ)頓宮(明石郡邑美郷)に到着しています。行幸の目的は明確にできませんが、一週間程度滞在して帰途につき、19日に難波宮に到着しています。そして、26日に式部卿従三位の藤原朝臣宇合(うまかい)を知造難波宮事に任命しています。その後、29日に難波宮から平城宮に還りました。
 知造難波宮事は、難波宮造営の総監督としての役職です。藤原宇合は藤原四兄弟と呼ばれる人物の一人で、式家の祖となります。聖武天皇は、宇合を責任者として難波宮を新たに造営しようとしました。難波宮は大阪市中央区法円坂を中心に広がり、前期と後期の二時期に分けられる遺構が確認されています。前期難波宮は、大化改新に伴って造営された難波長柄豊﨑宮(なにわながらとよさきのみや)の遺構で、後期難波宮が聖武天皇の造営した難波宮の遺構とされています。前期難波宮には瓦は使用されていませんが、後期難波宮は瓦葺きの建物によって構成されていたことがわかっています。天平4年(732)3月26日、宇合らが褒美を与えられており、難波宮造営の任を解かれています。おそらく難波宮の造営工事がほぼ終了したものと考えられます。宇合は8月17日に、九州の防備を担当する西海道節度使に任命されています。
この後期難波宮を造営する責任者として藤原宇合が任命されたのが726年。それからちょうど1,300年になるので、難波宮造営と柏原の関係について考えてみたいと思います。
 『日本書紀』天武12年(683)12月17日、天武天皇は「都城・宮室は一か所ではなく、必ず2~3か所造るものだ」として、まず難波宮造営に取り組みました。長柄豊﨑宮を改修して整備に着手したようですが、朱鳥元年(686)正月14日、大蔵省から失火して宮室が悉く焼けたと記されています。前期難波宮の遺構には焼土がみられ、一部を除いて大半の建物が焼失したようです。
 聖武天皇は天武天皇を理想としていたようで、新たな難波宮の造営も天武が果たせなかった難波宮造営を実現するためだったのではないでしょうか。この聖武朝難波宮の造営が、柏原に大きな影響を与えることになりました。難波宮は副都として位置付けられ、平城宮との往来が激しくなると予想されました。そのために行幸路が整備され、さまざまな施設も設けられることになったようです。聖武朝の難波宮造営が無かったならば、柏原の奈良時代はまったく違ったものになっていたと思います。

 (安村)

後期難波宮のCG復元

後期難波宮のCG復元(積山洋『東アジアに開かれた古代王宮』2014より)

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