【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (2) 聖武天皇の難波行幸

公開日 2026年7月2日

 聖武天皇が、神亀3年(726)の次に難波宮に行幸したのは、天平6年(734)3月10日でした。16日には造難波宮司らに褒美が与えられ、難波宮に奉仕した東生郡・西生郡の田租と調を免除し、摂津国のその他の十郡の調を免除しています。難波宮の前面に広がる、官人の居住地などの難波京の完成と考えていいでしょう。17日に難波を出発した聖武天皇は、竹原井頓宮に宿泊し、19日に平城宮に還っています。4月3日には、竹原井頓宮に仕えた河内国の安宿郡・大県郡・志紀郡の田租を免除しています。
 天平4年(732)に難波宮の宮域が完成し、6年3月までには京域の造営も終了したので、新造なった難波宮への行幸となったのでしょう。その帰途に宿泊した竹原井頓宮は仮設の施設だったと考えられますが、難波宮造営に伴って竹原井頓宮も瓦葺きの常設の離宮として造営が進められていたようです。その様子を視察したうえで、半月後の4月3日に竹原井離宮が完成したという連絡が入り、3郡の田租免除となったと考えられます。
 その次の難波宮行幸は、天平12年(740)2月7日でした。19日に百済王らが音楽を奏し、同じ日に平城宮に還っています。この行幸関連の記録には見えませんが、その往来のいずれかに、聖武天皇が智識寺(柏原市太平寺)の廬舎那仏を礼拝しています。
 天平勝宝元年(749)12月27日、聖武太上天皇らが東大寺に参拝し、大仏の前で橘諸兄が天皇の詔を読み上げています。「去る辰年に河内国大県郡の智識寺の廬舎那仏を礼拝し、朕もすぐに造立したいと思っていたができなかった」とあります。天平勝宝元年の前の辰年は天平12年(740)です。その年に聖武が智識寺を参拝したのならば、2月の難波宮行幸のとき以外には考えられないのです。その往来のいずれか、おそらく往路で智識寺を参拝したと考えられます。
 聖武天皇は、天平16年(744)閏正月11日にも難波宮に行幸していますが、これは恭仁宮からの行幸でした。2月26日に難波宮を皇都としており、それに先立つ24日に紫香楽宮に向かっているので、このときには柏原へは来ていません。
 天平17年(745)5月に平城京に還都し、8月28日にまたも難波宮に行幸しています。難波で体調を悪化させた聖武は、9月25日に平城宮へ還ることになり、その日は宮池駅に宿泊し、翌日平城宮に到着しています。
 ここで注目されるのは、天平12年の智識寺参拝です。これが大仏造立のきっかけとなったと『続日本紀』に記されているのです。これについては、のちに考えたいと思います。

 (安村)

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