公開日 2026年7月9日
柏原市青谷遺跡で、竹原井(たかはらい)離宮跡と推定される遺構が発見されています。大型の瓦葺基壇建物の周囲を、瓦葺の建物が回廊状に囲んでいます。『続日本紀』には、竹原井頓宮、竹原井離宮、竹原井行宮の名称がみえます。これらは平城宮と難波宮の往来時などに利用された施設と考えられ、青谷遺跡周辺に、その遺構があると考えられています。それでは頓宮、離宮、行宮と名称が異なるのはなぜでしょうか。
『続日本紀』では、離宮・宮と頓宮・行宮は厳密に区別されています。離宮・宮と記されるものは複数回の行幸がみられるものばかりで、瓦葺き建物を伴う常設の施設だったと考えられます。それに対して、一度しか登場しない仮設の宮は頓宮または行宮と表記されています。
養老元年(717)に元正天皇が行幸した竹原井頓宮は仮設の施設だったのでしょう。そして、天平16年(744)に元正太上天皇が行幸した竹原井離宮は常設の瓦葺施設だったと考えられます。これが青谷遺跡で発見された遺構に対応します。
天平6年(734)、聖武天皇の竹原井頓宮行幸については、先に記したように行幸の翌月に3郡の田租免除がみられることから、このときに離宮としての瓦葺建物が完成したと考えられます。聖武天皇は、難波宮の完成に伴って、これから平城宮と難波宮との往来が激しくなると考え、常設の離宮を設けることにしたのでしょう。必要なときに仮設していた竹原井頓宮の近くに、離宮の地を求めたのだと思います。
青谷遺跡は大和川が芝山に行く手を遮られて大きく湾曲する右岸に位置しています。川が迫る地で、洪水の危険も考えられる地ですが、聖武天皇の好む風景だったようです。恭仁宮や吉野離宮跡とされる宮滝遺跡もよく似た景観です。『万葉集』巻20-4457番の題詞に、「天平勝宝八歳(756)丙申二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇太皇大后河内離宮に行幸」とみえます。竹原井離宮は河内離宮とも呼ばれたようです。
その後、瓦葺建物が解体され、回廊状の建物は掘立柱塀になっています。これが、宝亀2年(771)に光仁天皇が行幸した竹原井行宮なのでしょう。難波宮造営に伴って、聖武天皇は竹原井離宮を造営し、天平6年(734)4月に瓦葺の離宮が完成したようです。竹原井離宮は天平16年に元正太上天皇が、天平17年には聖武天皇が、天平勝宝8歳には聖武太上天皇が利用しています。天平12年の智識寺参拝、難波宮行幸の往来にも利用していると思いますが、史料には見えません。
※2017年の連載コラム「竹原井頓宮」もご覧ください。
(安村)

竹原井離宮跡(青谷遺跡)の遺構(北から)