【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (4)龍田道の整備と駅家

公開日 2026年7月16日

 大和川に沿った龍田道は、推古21年(613)に設置された「難波より京に至る大道」の一部と考えられます。飛鳥時代の龍田道を通って河内から大和へ向かう場合、大和川左岸堤防を進み、芝山の南をまわって青谷で大和川対岸へ渡ったと考えられます。ここから大和川右岸を東へ進み、亀の瀬を越えて龍田大社の前を通って斑鳩へと進んだのでしょう。
 ところが奈良時代になると、安堂付近で大和川を左岸から右岸へ渡り、山中に入って浄徳谷と呼ばれる谷を通って青谷へ下ったと考えています。奈良時代に河内大橋が架橋されていたこと、智識寺行幸が三度もあったことなどから、山越えの道が開かれていたのではないかと考えられるのです。
 もし飛鳥時代のルートならば、智識寺を参拝するためには、竹原井離宮近くの青谷で大和川を対岸へ渡り、大和川左岸を進んで石川を渡り、再び大和川を渡らなければ智識寺に参拝できません。智識寺参拝後にまたも大和川を渡って難波宮へ向かうことになります。
 山越えの道では、安堂から登った津越(づごし)と呼ばれる峠で、高さ5m前後の切り通しがみられ、道幅も約5mあります。このような大規模な切り通しは古代に遡る可能性が高いと考えられます。また、浄徳谷は緩やかな傾斜をもつ直線道が復元でき、このルートを奈良時代に行幸路として整備したと推定されます。
 安堂付近の大和川に河内大橋が架かっていたならば、このルートで渡しを使わずに平城宮から難波宮への往来が可能となります。路線上には安堂に津積駅家(つつみのうまや)が設けられていたと考えられ、三郷町勢野附近に平群駅家(へぐりのうまや)が設けられていたと考えられます。駅家は古代の30里(約16㎞)ごとに設けられましたが、このように想定すると、平城宮から平群駅家まで16㎞、津積駅家から難波宮まで16㎞、平群駅家と津積駅家との間は山越えなので10㎞となります。これによって、平城宮と難波宮の間を馬で連絡することが可能となります。聖武朝の難波宮造営に伴って、龍田道のルートが整備され、緊急時の駅による連絡手段を確保したと考えられます。
 ただ低いとはいえ山中の峠越えのルートは厳しかったようで、平安時代なると間もなく飛鳥時代のルートに戻ったようです。

 (安村)

津越の切通し道

津越の切通し道(東から)

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