公開日 2026年7月24日
生駒山地の西麓を南北に縦貫する東高野街道は、7世紀ごろに設置された古代道と考えられ、平安時代には平安京から四国へと向かう南海道となりました。『延喜式』には南海道の駅として、河内国に楠葉、槻本、津積(つつみ)の三駅が置かれていたことが記されています。駅とは緊急時の連絡等に使用する馬の乗り継ぎ地で、その施設を駅家(うまや)といいます。駅は全国に設けられ、津積駅家には七匹の馬が置かれていました。
楠葉駅家は枚方市楠葉に、槻本駅家は四條畷市中野付近にあったと考えられます。津積駅家の所在地は諸説ありますが、津積郷のある大県郡内と考えられ、東高野街道と龍田道が交わる柏原市安堂町付近と考えるのが妥当でしょう。現在の近鉄大阪線安堂駅のすぐ東側です。ここに「馬場先」という小字名が残っています。さらにその南には、駅家周辺に多いとされる「前田」「前畑」の小字もみられます。これは、「ウマヤ」「マヤ」が「前」に転じたと考えられ、駅家を維持するための田畑に伴う地名と考えられています。
小字「馬場先」内での安堂遺跡87-2次調査で、平安時代の墨書土器が出土しています。駅家に直接関連するような墨書は確認できませんが、墨書土器は通常の集落からは出土しないものなので、駅家の施設の存在が予想されます。
『日本霊異記』中巻第17に、「平群駅家の西の方に、少き池有り。」と書かれています。平群駅家は、三郷町勢野の平隆寺付近に小字「馬場垣内」が確認できます。ところが、『延喜式』には平群駅家がみえず、平安時代には廃止されていたことがわかります。
もし津積駅家が奈良時代からあったならば、平群駅家とともに、平城宮から難波宮へのルート上にあったことになります。平安時代になって不要となった平群駅家は廃止され、津積駅家は南海道の駅家として利用されるようになったと考えられます。
天平17年(745)に重病の聖武天皇が宮池駅に宿泊しています。その日のうちに平城宮へ帰りたかったようですが、宮池駅で夕暮れとなったため、やむを得ず駅に宿泊しました。難波宮から平城宮へのルート上で、平城宮に近い駅家となれば平群駅家と考えられます。平群駅家の推定地の西に「三宅畠」「池ノ辺」という小字がみえます。平群駅家は宮池駅家とも呼ばれたのではないでしょうか。
龍田道ルートの変更、津積駅家の設置も、聖武朝難波宮の造営に関連するできごとだったのです。
(安村)

津積駅家と河内大橋の推定地