【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (6)河内大橋の架橋

公開日 2026年7月30日

 『万葉集』に、高橋虫麻呂が詠んだ歌として、「河内の大橋を独り行く娘子を見る歌」があります。この題詞から、奈良時代に「河内大橋」と呼ばれる橋があったことがわかります。河内大橋とはどんな橋だったのでしょうか。

『万葉集』巻第九 1742・1743

 河内の大橋を独り行く娘子を見る歌一首 并せて短歌

しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく

 反 歌

大橋の 頭に家あらば ま悲しく ひとり行く児に 宿貸さましを

 「片足羽川(かたしはがわ・大和川)に架かる丹塗りの大橋の上を、紅染めの赤い裳の裾を引きながら、山藍で染めた服を着て、たったひとりで渡っているあの子は、夫がいるのだろうか、独身なのだろうか、尋ねてみたいが、私はあの子の家も知らない」という内容です。反歌は、「大橋のたもとに私の家があったら、寂しそうに一人で行くあの子を一晩泊めてあげるのに」という歌です。
 河内大橋の情景が目に浮かぶようです。虫麻呂は高いところから橋を眺めているようです。声をかけても届かない距離です。これは、龍田道で山越えをして、安堂町付近の高台から眼下に架かる橋を見て詠んだ歌でしょう。橋は安堂町付近、のちに大和川が付け替えられた築留堤防付近にあったと考えられます。このあたりで大和川の川幅が狭くなっており、橋の東たもとの安堂遺跡から水辺の祀りに伴う墨画人面土器が出土しています。
 虫麻呂がこの歌を詠んだのは、難波宮への往来の途中でしょう。虫麻呂は藤原宇合の従者でした。宇合が知造難波宮事の任にあったのは神亀3年(726)から天平4年(732)の間でした。その間に、宇合への連絡等で難波宮へ向かう途中に詠まれた可能性が高いと思います。そして、虫麻呂が見た河内大橋は、完成したばかりの橋だったのではないでしょうか。難波宮造営に伴って交通路も整備されたと考えましたが、河内大橋の架橋もその一環だったと考えられ、730年頃に架橋されたのではないでしょうか。
 ※河内大橋については、2017年の 連載コラム「河内大橋」もご参照ください。

 (安村)

河内大橋の推定地

河内大橋の推定地

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