【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (8)河内国分寺の建立

公開日 2026年8月13日

 天平13年(741)3月24日に、国分寺建立の詔が出されています。国ごとに金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪之寺(尼寺)を建立し、僧寺には七重塔を建立することを命じています。これが国分寺、国分尼寺と呼ばれる寺院です。
 河内国分寺跡は、国分東条町の東、明神山系の北斜面に立地する東条廃寺と考えられています。平地が十分に確保できなかったため、西の尾根に金堂と講堂、東の尾根に塔を建て、その周辺には谷が入り組んでいるため、回廊や築地がめぐっていたのかどうかもわかりません。しかも一般の寺院は南に開けた地に建立されるのですが、南に斜面が迫っており、眺望は開けていません。
 国分寺ならば、国府の近くの広い平坦地に造営されるのが普通です。河内国府が藤井寺市国府遺跡付近であるならば、その周辺で土地を確保することは不可能ではなかったと思います。しかも大和に次ぐ大国の河内国の国分寺なのです。このような立地から、これは国分寺跡ではないという声も聞きます。しかし、「国分」という地名と、基壇一辺長19mという塔跡は、国分寺の七重塔と考えて間違いないでしょう。金堂の規模も国分寺と考えることに問題ないと思います。
 国分寺跡出土瓦の多くを占める青谷式軒瓦は、竹原井離宮(青谷遺跡)造営に伴って生産された瓦で、国分寺跡出土瓦のほうがやや年代が下ると考えられます。この瓦は誉田御廟山古墳(応神陵古墳)の外堤などで焼成されており、近接する河内国府が管掌して生産されたと考えられています。それゆえ国が直接関わるような離宮や国分寺に供給されていたのでしょう。
 国分寺がこのような立地をとっているのは、先に造営されていた竹原井離宮の存在が大きかったのではないかと考えられます。金堂の下層に先行する基壇状遺構があり、その方位から竹原井離宮の建物一を意識して建てられていると考えられます。竹原井離宮の造営に伴って、まず大和川の対岸に簡単な仏堂が設けられ、その地に国分寺を建立することになったと考えられます。この位置に建立するように指示したのは、ほかならぬ聖武天皇だったのではないでしょうか。
 国分尼寺の伽藍はいまだ確認できていませんが、国分寺跡西方の現在の推定地から大きく離れることはないと考えられます。国分寺から国分尼寺を通り玉手山丘陵の北を迂回して石川を渡ると河内国府です。北へとると渋河道から難波へ向かいます。このような立地を選んで、河内国分寺、国分尼寺が建立されたのでしょう。

 (安村)

河内国分寺跡塔基壇

河内国分寺跡塔基壇

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