【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (7)聖武天皇の智識寺行幸

公開日 2026年8月6日

  『続日本紀』天平勝宝元年(749)12月27日に、宇佐八幡の神を迎えた聖武太上天皇らが東大寺に参拝し、大仏の前で橘諸兄が詔を読み上げました。その詔から、聖武天皇が天平12年(740)に河内国智識寺の廬舎那仏を礼拝したことがきっかけとなって、東大寺の大仏が造られることになったことがわかります。
 聖武天皇が天平12年に智識寺を参拝していたならば、それは2月に難波宮に行幸したとき以外に考えられません。智識寺の廬舎那仏は、聖武天皇を感動させるほど立派な仏像だったのでしょう。しかしそれは、仏像のすばらしさだけではなかったと考えられます。一つは、その立派な仏像を知識が造ったということです。
 知識とは仏教を信仰し、仏教のために寺院を建立したり仏像を造ったりするために私財を寄付し、そのための労働などに協力する行為、もしくはそれを行う人々のことです。智識寺やそこに安置される廬舎那仏は、仏教を信仰する知識集団が造ったのです。仏教による国づくりを目指す聖武天皇は、そこに感動したのでしょう。だから、天平15年(743)10月15日の大仏造営の詔のなかで、「大仏を造ることに協力してくれる人は一枝の草でも、一握りの土でも持ってきてほしい。みんなの力で大仏を造るのだ。」と宣言しています。これこそ知識の姿なのです。
 もう一つ、廬舎那仏は華厳経の本尊で、聖武天皇は華厳の教えこそが最も尊いものだと考えていました。ところが、華厳経を理解できる僧侶が少なく、天平12年から大安寺の審詳に華厳経の教えを講説させています。しかし、智識寺には同じ天平12年の2月に、すでに廬舎那仏がまつられていたのです。都の僧侶よりも早く、智識寺の僧侶らが華厳経を理解し、その本尊をまつっていたということです。いかにこの地の知識らが、仏教を深く理解していたかということがわかります。その点にも、聖武天皇は感動したのでしょう。
 天平勝宝8歳(756)2月に孝謙天皇が河内六寺を参拝した行幸に、聖武太上天皇も同行していました。このとき孝謙天皇は智識寺南行宮に滞在していたのですが、体調のすぐれなかった聖武太上天皇は竹原井離宮(河内離宮)に滞在していたので、孝謙の参拝には同行していなかったと考えられます。ただその後難波宮へ向かっているので、難波宮への途次に、智識寺の廬舎那仏だけは参拝したのではないかと思います。知識の姿に打たれた聖武は、大仏造営の責任者も知識集団を率いた行基に依頼することにしました。

 (安村)

智識寺東塔基壇復元図

智識寺東塔基壇復元図

【コラム】聖武朝難波宮と柏原

資料館TOP

お問い合わせ

文化財課
TEL:072-976-3430
戻る