【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (9)孝謙天皇の河内六寺行幸

公開日 2026年8月20日

 『続日本紀』天平勝宝元年(749)10月9日に、「河内国智識寺に行幸す。外従五位下茨田宿禰弓束女之宅を以て行宮と為す。」とあります。聖武天皇から譲位された孝謙天皇の、即位後初めての行幸が智識寺だったのです。完成に近づいた東大寺大仏の完成祈願のためと考えられ、孝謙にとって大仏完成が最大の課題だったことがわかります。15日に茨田宿禰弓束女に正五位上を授け、孝謙はこの日に平城宮に帰っています。
 茨田宿禰弓束女がどのような人物なのかわかりませんが、正五位上という高い位であったことがわかります。孝謙天皇の後宮に仕えていた人物でしょうか。1985年の安堂遺跡の調査によって出土した天平18年(746)の木簡に、若狭国から納められた調塩の荷札木簡があります。平城宮に租税の調として納められた塩に付された木簡は、この行幸に伴って搬入されたものではないかと考えられます。そうであるならば、調査地は茨田宿禰弓束女の宅内だったと考えることができます。
 天平勝宝8歳(756)2月24日に、「難波に行幸す。是日、河内国に至り、智識寺南行宮に御す。」とあります。25日に天皇は、智識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂の六寺に行幸し、仏像を礼拝しています。この六つの寺を総称して河内六寺と呼んでいます。
 26日には内舎人を六寺に遣わして経を読ませ、寺の地位に応じて施し物を与えました。28日は大雨で、河内国の諸社の祝・禰宜ら180人に地位に応じて正税を賜い、この日に難波宮の東南新宮に遷りました。3月2日、河内・摂津二国の田租を免除し、4月15日に渋河路をとって帰途につき智識寺行宮に至り、17日に平城宮に還りました。
 智識寺南行宮と智識寺行宮は同じ行宮と考えて問題ないでしょう。智識寺南行宮で、往きに4泊、帰りに2泊したことになります。この行幸は難波宮が目的地でしたが、智識寺南行宮に6泊もしていることから、河内六寺参拝が行幸の一つの目的だったことがわかります。
 六寺行幸の目的は、東大寺の大仏完成祈願と御礼、それと聖武天皇の病気平癒でしょう。大仏は天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われましたが、いまだ完成には至っていませんでした。また、聖武太上天皇もこの行幸に同行していましたが、行幸から平城宮に還って間もなく没しています。健康状態はかなり悪かったようです。これらの祈願を、東大寺大仏を造る契機となった智識寺で祈ろうと考えたのでしょう。

 (安村)

安堂遺跡出土木簡a.表  安堂遺跡出土木簡 裏

安堂遺跡出土木簡  ・左-表 ・右-裏

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