【コラム】聖武朝難波宮と柏原 (10)聖武朝難波宮と柏原

公開日 2026年8月27日

 聖武天皇の難波宮造営に伴って平城宮からの行幸路が整備され、龍田道のルート変更、河内大橋の架橋、津積駅家の設置、竹原井離宮の造営、河内国分寺の建立と、柏原市域は大きな変貌を遂げました。天皇がしばしば行幸で往来することになり、官人の往来も激しかったことでしょう。河内六寺を中心に仏教が栄え、堅下地区はさながら仏教都市の景観だったと考えられます。それを支えたのは河内の知識でしょう。智識寺だけでなく河内六寺のほかの寺院も知識が建立したと考えられ、龍田道のルート変更、河内大橋の架橋などにも知識の果たした役割が大きかったと考えられます。聖武天皇、孝謙天皇が目指した仏教国家の方針とも一致していたのです。これら柏原の変貌は、1,300年前に藤原宇合が知造難波宮事に任命されたことから始まったのです。
 しかし、延暦3年(784)の長岡京遷都、延暦13年(794)の平安京遷都は大きな変化をもたらしました。交通は淀川筋に移り、大和川や龍田道の利用は激減しました。また難波宮の建物が解体され、長岡宮へ移築されていることがわかっています。竹原井離宮の建物も、神護景雲3年(769)完成の由義宮へ移築された可能性があり、その後大山崎の河陽離宮に移築されています。津積駅家は南海道の駅家として継続しますが、平群駅家は廃絶されました。河内大橋も間もなく朽ち果てたことでしょう。河内六寺も、平安時代の間に次々と廃絶したようです。『扶桑略記』には、応徳3年(1086)に智識寺が顛倒し、六丈の捻像観音立像が粉々に砕けたとあります。あの智識寺でも長岡京遷都から300年後には荒廃していたのです。
 延暦7年(788)の和気清麻呂による大和川付け替え工事は、奈良時代に難波宮への行幸路であった渋河道を破壊して進められました。長岡京遷都に伴って難波宮が不要となり、淀川筋重視の政策のためと考えられます(2017年 連載コラム「和気清麻呂の大和川付け替え」参照)。
 正確なデータに基づくものではありませんが、これまでの市域における発掘調査では、平安時代の土器は奈良時代の土器の1%程度しか出土していないと思います。土器は食生活に密着したものなので、おそらく人口が1%程度に減っているのだと思います。長岡・平安京遷都によって、生活の場は京近辺に移ったのかもしれません。
 聖武天皇による難波宮造営によって大きく華開いた柏原市域は、長岡・平安京遷都によって急速に衰退したようです。

 (安村)

奈良時代の柏原の寺院

奈良時代の柏原の寺院

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