【コラム】大和川の流れ~新大和川のルート~ (1)新大和川をどこに流すか

公開日 2026年9月3日

 河内国丹北郡城連寺村(松原市)に残された「新大和川堀割由来書上帳」(長谷川家文書)によると、「下河内村々願い始めより元禄十六未年まで、およそ四十五ケ年に成り申すよし」とあります。江戸時代には、昨年を二年前、一昨年を三年前と数えるので、元禄16年(1703)の45年前となると、万治2年(1659)となります。万治2年から大和川の付け替え嘆願が始まったと書かれているのです。幕府は、万治3年(1660)に最初の付け替え検分(見分)を実施しています。検分とは、現地調査をして検討することです。万治2年に初めて付け替え嘆願書が提出され、翌年に検分が実施されたならば整合的です。大和川の付け替え運動は、万治2年から始まったと考えていいでしょう。  
 志紀郡太田村(八尾市)の柏原家文書に、延宝4年(1676)に作成されたと考えられる「乍恐言上仕候(おそれながらごんじょうつかまつりそうろう)」があります。嘆願書の体裁で作成された文書ですが、提出年月日が記入されていないので、実際には提出されなかったのかもしれません。その文書の初めに、「河内国志紀郡丹北郡住吉郡之百姓ニて御座候、先年片桐石見守様岡田豊前守様川違御見分ニ御出被為成候大和川石川二ヶ所の川、志紀郡弓削村柏原村領内之堤ニて川御付ケ替可被成と御見分被遊、住吉手水橋ゟ間縄御引せ弓削村柏原領内の堤に杭木御打被為成候ニ付、縄筋之百姓日損水損場の百姓迷惑ニ奉存御侘之御訴訟申上候へハ、不定事ニ候間左様ニ心得候へと被為仰付候ニ付難有奉存、御当地へ御訴訟延引仕候御事」とあります。
 ここにみえる片桐石見守貞正・岡田豊前守善政の検分は、万治3年の検分のことです。その際に、弓削村(八尾市)、柏原村(柏原市)から住吉の手水橋までに新大和川を造ることを検討したというのです。おそらく、付け替え嘆願書に新大和川の提案ルートが示されており、そのルートに杭を打って、縄を張って付け替えを検討したと考えられます。
 付け替え前の大和川は、柏原村の北に旧大和川から引水する平野川の取水口がありました。弓削村から柏原村にかけて付け替え地点を考えるならば、おそらく旧平野川を利用することを考えたのだと思います。平野川の流れを利用し北西へ、木本(きのもと)村(八尾市)と六反(ろくたん)村(大阪市平野区)の間から南西へ向きを変え、瓜破(うりわり)村と喜連(きれ)村(どちらも大阪市平野区)の間から住道(すんじ)村(大阪市東住吉区)の東へ進み、そこから西は新大和川に近いルートではないかと考えられます。
 住吉手水橋とは、安立(あんりゅう)町(大阪市住之江区)の紀州街道に架かる、現在の手洗橋のことです。狭間(はざま)川に架かる橋でした。このあとに検討された付け替えルートでは、ほとんどの最終地点が住吉郡手水橋となっています。

 (安村)

1.万治3年の検分推定ルート

「大和川違積り図」(当館所蔵中家文書)に、万治3年の検分推定ルートを記入。

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