公開日 2026年9月11日
万治3年(1660)の検分に続いて、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)にも幕府による大和川付け替え検分が実施されています。それぞれ、どのようなルートで付け替えが検討されたのか、みていきたいと思います。
寛文5年の検分は、淀川・木津川・大和川を巡見したうえで、堤防の修復などを行うとともに、翌年には「山川掟之覚」を発し、山の荒廃が洪水の原因なので山が荒廃しないように努めるよう指示をしています。この際に付け替え反対運動が起こっていないようなので、大和川付け替えのルートが示されなかった可能性があります。
次に検分が実施されたのは、寛文11年でした。 (1)で紹介した延宝4年の「乍恐言上仕候」(柏原家文書)に、「去ル亥年永井右衛門様藤懸監物様御出被成刻は柏原舟橋村領内の堤杭木御打せ被為成候故、杭筋之百姓日損水損場之百姓夥敷御詫言の御訴訟申上候処、曾て御取上けも無御座候ニ付、扨者此度は川付ケ替り申し候と奉存」とあります。柏原村から舟橋村にかけての大和川堤防に付け替え地点の杭を打ち、新川の予定ルートにも杭を打ったようです。これによって、新川周辺の人々は、今度こそ付け替えが実施されると思い、もう生きていくことはできないと自害する人や発狂する人もいたといいます。ところが翌年2月に付け替えが中止となり、みんな安心したということです。この際には、柏原村と舟橋村にまたがった地点、実際の付け替え地点付近での付け替えを考えていたことがわかります。
その次に検分が実施されたのは、延宝4年でした。付け替え反対嘆願書が太田村や城連寺村に残っており、延宝4年3月の「乍恐言上仕候」の冒頭に、「河州志紀郡舟橋村柏原村ゟ西者住吉郡手水橋迄村々百姓共ニて御座候」とあります。ここから、新大和川のルートは寛文11年検分とほぼ同じルートで考えられていたことがわかります。また、「瓜破村領内弐拾町計山之内村杉本村領之内拾四五町合三十四五町ハ新川被為仰付は二丈余も御堀不被成候ては水落申間敷と奉存候」とあるので、瓜破村の南を通って台地を横断し、上町台地も依羅池付近から西へ直線的に横断するルートで検討されていたと考えられます。34~35町(約3.8km)にわたって、2丈(6m)以上の掘り下げが必要になると反対派が訴えています。
おそらく、寛文11年と延宝4年の検分で検討されていたルートは、「大和川違積り図」のⅠで示されたルートでしょう。沼村・太田村(八尾市)の北を通り、川辺村(大阪市平野区)と長原村(大阪市平野区)の間を南西に向かい、瓜破台地を横断するルートで考えられていたようです。
(安村)
「大和川違積り図」(当館所蔵中家文書)に加筆。