公開日 2026年10月1日
更新日 2026年10月1日
新大和川のルートについて、計画されたいくつかの案が明示された絵図です。絵図の裏面に「大和川違積り図」と書かれており、本市ではこの名称を使用していますが、中九兵衛氏が「新大和川計画川筋比較図」とする絵図と同じものです。この絵図には6本のルートが点線で記入されており、4本は赤色の点線、2本は黒色の点線で示されています。それぞれを、下の写真にあるように、A、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳa、Ⅳbとします。
Aは奈良街道と旧大和川の久宝寺川が接する植松新家で付け替え、西へと流れ、一部平野川に重なり、阿倍野村や天下茶屋の北で海へと注いでいます。このルートは、延暦7年(788)に実施された和気清麻呂の付け替えルートに相当します。現在の茶臼山の河底池などに痕跡を残しており、この工事は延べ23万人あまりを動員して失敗しています。
Ⅰのルートは、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)の検分ルートと考えられます。実際の付け替え地点となった舟橋村と柏原村の間で付け替え、沼村・太田村・川辺村の北を通ったあとは、新大和川の流れに沿っていました。ただし、上町台地はまっすぐ西へ横断する予定だったようです。
Ⅱのルートは、天和3年(1683)の第1ルートと考えられます。付け替え地点が国府村と舟橋村の間で、かなり南に寄っています。北條村、大井村の南を通って大乗川の流れを利用しようと考えたようです。川辺村の北を通って、そのあとはⅠルートに重なります。
Ⅲのルートは、天和3年の第2ルートのうち、北側の阿倍野村の南へ流すルートです。田辺村から安立町へのルートは図示されていません。このルートは、他の案に比べるとかなり北へ寄ったルートとなり、高低差や上町台地の掘削土量を考えると、現実的な案とは考えられません。まず検討されたⅡのルートが認められず、急遽まったく違うルートを検討することになったようです。天和3年の検分では、この二つのルートを検討したうえで、付け替え不要と決定されました。
Ⅳaのルートは、宝永元年(1704)の付け替え計画ルートで、瓜破村の北を通るルートです。元禄16年(1703)の検分は、このルートで検討されたと考えられます。「川違新川普請大積り」(当館所蔵・中家文書)などの積算書では、瓜破村の北を通ることになっており、工事直前まで瓜破村の北を通す計画だったようです。瓜破台地を横断する掘削工事が大変なので、台地の北へ迂回する予定だったのでしょう。ところが北への湾曲が大きくなり、堤防決壊の危険性があったので台地の横断となったようです。
Ⅳbのルートは宝永元年(1704)の実際の付け替え工事、すなわち現在の大和川のルートです。それまでは上町台地をまっすぐ横断するルートで検討されていたのですが、大きく南へ湾曲しています。
(安村)

「大和川違積り図」(当館所蔵中家文書)に加筆。