【コラム】大和川の流れ~新大和川のルート~ (8)瓜破村の北か南か

公開日 2026年10月22日

更新日 2026年10月22日

 天和3年(1683)の第2ルートを除いて、新川計画ルートは、どの案でも瓜破村の南を通す計画でした。瓜破村は、瓜破台地などと呼ばれる南から北へのびる台地上にあり、周辺よりも高台にありました。いずれの案でも、この台地を横断する計画でしたが、付け替えに反対した延宝4年(1676)3月の「乍恐言上仕候」(太田村柏原家文書、城連寺村長谷川家文書)などには、20町(約2.2㎞)ほどのあいだ2丈(6m)ほどの掘り下げが必要になり工事がたいへんであること、台地の東西が低くなっており、その部分の堤防が切れやすくなること、などが指摘されていました。
 水準測量の結果を示した「地形高下之事」(中家文書)によると、川辺村付近から東瓜破村(大阪市平野区)付近まで、約2㎞のあいだ掘り下げが必要になり、そのなかでも、1.2㎞ほどは3m近くの掘り下げが必要となることが示されています。反対嘆願書の2丈は過大であるとしても、1丈(3m)ほどの掘り下げが必要だったのです。
 幕府は、できるだけ掘り下げる部分を少なくしようとしていました。掘り下げには大きな労働力が必要だからです。つまり工期も費用も大きくなるのです。それで元禄16年の付け替え計画では、瓜破台地の掘り下げを避けて、台地の北へ迂回させるルートで検討したようです[Ⅳaルート]。
 しかし瓜破村の北を迂回する流れになれば、北への湾曲が大きくなります。そして北側(右岸)堤防は盛り土で築くことになり、盛り土で築かれた堤防への水当たりが強くなるため、破堤の危険性が高くなります。もし右岸堤防が決壊すると、喜連村周辺に大きな被害が発生するだけでなく、その水は平野方面へ、そして大坂市中へも影響が及ぶことになります。そのため、やはり瓜破台地を掘り下げることにしたのでしょう。付け替え工事直前に、台地を横断するルートに変更したようです[Ⅳbルート]。そうすれば、川筋が大きく湾曲することもなく、なめらかな流れにすることができます。このルートにしたのは、賢明だったと考えられます。
 瓜破台地を掘削した土は、付け替え地点から川辺村までの右岸堤防への盛土として運搬されたと考えられます。台地を掘削した土は、粘土質の堤防盛土に適した土だったと考えられます。

 (安村)

「大和川違積り図」(当館所蔵中家文書)部分に加筆。

「大和川違積り図」(当館所蔵中家文書)部分に加筆。

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