【コラム】大和川の流れ~新大和川のルート~ (9)浅香の千両曲がりと狭間川

公開日 2026年10月29日

更新日 2026年10月29日

 現在の大和川は、松原市付近から南西へと流れ、堺市北区浅香山町で大きく北西へと流れを転じ、遠里小野町から西へと流れています。天和3年(1683)までの計画ルートでは、いつもまっすぐ西へと流す計画だったようですが、付け替え工事の際に南へ大きく湾曲させることにしています。どうして湾曲させることにしたのでしょうか。
 この湾曲を「浅香の千両曲がり」と呼び、村を守るために千両払って流れを変えてもらった、などという話が残っています。また、浅香山の狐が工事を妨害したので流れを変えたという話も伝わっていますが、地形を有効に利用するためだったと考えられます。。
 新大和川は、この付近で土質の堅い上町台地を横断しなければなりませんでした。まっすぐ西へ流せば、1.5㎞ほどの間、最大6mほどの掘り下げが必要となります。しかし、台地の東にあった依羅池(よさみいけ)の中を通し、南東から北西へと流れる狭間川の流れを利用すれば、掘削土量を少なくすることができます。
 依羅池は、大阪市住吉区庭井から堺市北区常磐町にかけて広がる池でした。付け替え関連の史料では、味衛門池(みえもんいけ)と書かれています。池といっても、付け替えのころには沼となっており、堤防の構築もそれほど困難ではなかったと考えられます。付け替え後に、大和川左岸に残った池は庭井新田となり、柏原村の柏元家が開発、管理にあたっていました。
 狭間川は南東から北西へと流れていた川で、史料には浅香谷、谷川と書かれています。流路は多少変わっていますが、現在も大和川より南には狭間川があります。付け替え前は、安立町(大阪市住之江区)の南を通り、海へと注いでいました。安立町の南、紀州街道に架かる橋を手水橋といい、新川の計画案では、いつも最終地点は手水橋となっていました。その後、手洗橋と呼ばれるようになり、「手洗橋」と刻まれた石製の親柱などが今も残っています。狭間川の旧流路も道路となって残っているので確認できます。新しく川を掘り下げるよりも、もともとあった川を拡幅するほうが、工事が簡単にできたのです。
 付け替え工事によって、西除川の流れも北西へと付け替え、大和川左岸堤防と平行して流れる落堀川に合流させることになりました。そこから左岸堤防に沿って流れたうえで狭間川と合流し、大和川へ流れ込むようになりました。
 このように依羅池と狭間川を利用することで、大規模な掘り下げが必要な区間は0.7㎞余りとなり、まっすぐ西へ流す計画と比べると、掘り下げ区間は半分ほどになりました。幕府は、少しでも掘り下げ区間を少なくすることを考えていたようです。

 (安村)

手洗橋と旧狭間川の流路(東から)

手洗橋と旧狭間川の流路(東から)

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