公開日 2026年10月23日
更新日 2026年10月23日
本市雁多尾畑(かりんどおばた)に所在する真宗の古刹(こさつ)光徳寺(こうとくじ)には、豊臣秀吉の朱印状(秀吉みずから朱印を押した公的な文書)が3通所蔵されており、昨年度の歴史資料館 夏季企画展で展示させていただきました。いずれも、秀吉の弟 秀ひでなが長の家臣で、〝日本最強の山城(やまじろ)〟として名高い高取(たかとり)城(現 奈良県高取町)を築いた本多利朝(ほんだとしとも)(俊政としまさ)に宛てられたものです。
豊臣秀吉による「天下統一」は、日本の歴史上極めて重要な出来事でした。秀吉によって、土地と人間が「村」を単位に一元的に把握され、複数の権力が争いあう長い戦国の世が終わりを告げたのです。秀長は、郡山城(現 奈良県大和郡山市)を拠点に大坂城の秀吉を支えましたが、古くから京の都をうかがう反乱軍の拠点となってきた紀伊半島の奥地の制圧には相当手こずり、その打開策として、高取城が築かれました。本多利朝は、藤堂高虎(とうどうたかとら)などと並ぶ、秀長家臣団指折りの有能な人材でした。
光徳寺に残された書状は、秀長の死後、利朝が朝鮮出兵で壱岐島(いきのしま)の港の管理を任されていたときのものです。当時の兵站(へいたん)の様子を知り得る貴重な史料で、昨年の展示中には、新聞報道もあってずいぶん注目を集めたところです。江戸時代前期、本多家所縁(しょえん)の女性が光徳寺の住職と婚姻し、その時、朱印状がお寺にもたらされたとみられます。
ちなみに、利朝らは、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍(とうぐん)に属して武功を挙げ、利朝自身は数年後に死去します。晩年、高取の壷つぼさかでら阪寺に奉納した豊臣秀長と自身の木像が現在まで伝わっています。
▲豊臣秀吉 朱印状 (照曜山光德寺蔵)
(2026年11月号掲載)