公開日 2015年10月5日
大きかった右岸堤防
堤防の裾の部分を「根置(ねおき)」といい、上の平らな部分を「馬踏(ばふみ)」といいました。馬が踏んで歩くところだから「馬踏」です。もちろん、馬だけでなく、人も歩いていました。
新大和川では、左岸堤防の根置が13間(23.6m)、高さ2間半(4.5m)、馬踏3間(5.4m)でしたが、右岸堤防は根置15間(27.3m)、高さ3間(5.4m)、馬踏3間(5.4m)でした。馬踏の幅は変わりませんが、裾で2間、高さで半間だけ右岸堤防のほうが大きかったことがわかります。発掘調査の結果でも、これは確認されています。
では、なぜ右岸堤防のほうが大きかったのでしょうか。一つは、新大和川が流れているところは、北側へ緩やかに下がっているところが多いことと、そのため右岸堤防への水当たりが強くなることが考えられます。もう一つは、右岸堤防が切れたときの被害が大きくなるためと考えられ、おそらく後者の理由が大きかったのでしょう。
大和川より北側は次第に低くなっているため、右岸堤防が切れると、上町台地を除いて、淀川まで水に覆われてしまいます。昔の河内湖のようになってしまうのです。そして、広大な農耕地帯だけでなく、経済の中心であった大坂にも被害が及んでしまいます。
しかし、左岸堤防が切れてもそれほど広い範囲に被害は及びません。南へいくほど高くなっているので、大和川の近くしか水がつかないのです。そのため、左岸堤防を低くして、どうしようもないときは、左岸に洪水が起こるようにと考えていたようです。
左岸に住む人たちにとっては、迷惑な話です。それまでなかった大和川ができたために、洪水に脅かされながら生活をすることになったのです。実際に堤防が切れたことはほとんどないのですが、大和川の堤防があるために排水不良となり、左岸では何度も洪水の被害が出ています。昭和57年(1982)の西除川周辺での被害は大きなものでした。
自然の地形に逆らって造られた新大和川は、やはりどこかで無理が生じてしまったようです。
(文責:安村俊史)
北堤と南堤の比較