公開日 2017年7月2日
河内大橋はだれが架けたのか?
それでは、これほど大きな立派な橋を造ったのはだれだったのでしょうか。古代には、橋は基本的に国が架けることになっていました。河内大橋ならば、河内国府が架橋したと考えるのが普通でしょう。しかし、「家原邑知識経」にみえるように、改修が知識によって行われたことを考えると、架橋も知識によってなされたのではないかと考えたくなります。仏教を信仰する人たちが、自分たちの手で橋を架橋したのではないでしょうか。
奈良時代の知識として、すぐに思い浮かぶのは、道昭や行基です。彼らも盛んに橋を架けました。橋は人々の往来のためだけでなく、彼岸へ渡るという仏教的な意味もこめられていたと考えられます。そのため、知識の架橋が盛んだったのです。
「河内大橋」の架橋を試みた万福法師は智識寺、花影禅師は智識寺もしくは家原寺の僧だったのでしょう。智識寺は知識によって建立された寺院でした。そして聖武天皇が感動した蘆舎那仏を造ったのも知識でした。智識寺だけでなく、河内六寺はすべて知識によって建立された寺院だったのではないかと考えられます。300~400m間隔で並ぶ寺院は、あまりに接近しすぎています。大県郡には十分な可耕地がなく、これだけ多くの寺院を建立し、維持管理してくだけの生産力が認められないのです。また、一族の寺院として氏寺を建立できるような有力な氏族も見当たりません。大県郡だけでなく、安宿郡や志紀郡、古市郡など、広い範囲の氏族らが知識として建立したのが河内六寺だったのではないかと考えています。おそらく、その中心となったのは、渡来系の氏族だったのでしょう。その知識の力で、「河内大橋」を架橋し、改修したのではないでしょうか。橋を造るためには、高度な知識や技術が必要となります。渡来系氏族であれば、それらの知識や技術ももっていたことでしょう。
彼らは橋を架けることによって彼岸への架け橋とし、天皇に知識の力や理想を知ってもらうことも目的のひとつだったのではないでしょうか。
(文責:安村俊史)
写真:河内大橋と娘子