公開日 2018年11月11日
「大和川分水築留掛かり」の組織
「大和川分水築留(つきどめ)掛(か)かり」は、付け替え翌年の宝永2年から動き出したと考えられますが、正式に「築留(つきどめ)樋組(ひぐみ)」として組合が発足したのは、宝永6年(1709)のようです。築留と二俣には会所が設けられ、そこには用水の管理を専業とする樋(ひ)守(もり)が西用水と東用水それぞれ1名ずつ置かれました。そして、通常の用水管理や組合の運営などの業務は会所で行われました。また、西用水井(い)路(じ)、東用水井路それぞれをさらに上郷と下郷に区分し、各郷から樋元惣代(ひもとそうだい)、年番惣代(ねんばんそうだい)、諸用(しょよう)立会(たちあい)などの役人が選出されました。
築留堤防上に見張所と倉庫を設け、堤防下に会所が設置されました。西用水の樋守は久宝寺村から移った高田家で、屋号を久宝寺屋と号しました。東用水の樋守は岩田村から移った畑中家で、屋号を岩田屋と号しました。両家の職は世襲となっていましたが、その後高田家が職を辞したため、両用水とも畑中家が管理するところとなり、会所も1ヶ所となりました。
樋元惣代は村々から選ばれた組合の最高責任者で、組合を統括し、対外的には組合の代表でもありました。年番惣代は樋元を補佐して組合運営にあたるとともに、組合会計の監査なども行いました。これらの職務は、組合の規約に詳細に規定されており、この規約に基づいて業務が行われました。
毎年5月から9月末までは「夏川」と称して農地の用水にとって、最も重要な時期だったので、年番委員が交代で会所に詰め、用水に関する実務上の監督や各村との連絡にあたる仕(し)来(きた)りがあったようです。
このようにして、「大和川分水築留掛かり」は守ってこられました。一箇所に権力が集中することがないように、各村の意見を反映して組合の運営を行っていたことがわかります。これは、現在の築留土地改良区へと引き継がれています。
(文責:安村俊史)

図:築留樋組組織図(川島孝「近世河川灌漑における用水組合の研究」『ヒストリア』62号)