公開日 2019年4月15日
鳥坂寺(とさかでら)出土の線刻平瓦
歴史資料館の北西に、史跡鳥坂寺跡があります。ここから昭和36年度に出土した平瓦に文字が線刻されていました。瓦が焼かれる前、生乾きの状態で平瓦の凸面に先端の鋭い工具で刻まれています。線刻は次のようなものです。
□□乃五十戸 玉作ア飛鳥評 |
2行目の「玉作ア」は「玉作部」と読めます。「ア」は「部」の右側のおおざとを略して書いたもので、古代にはよくみられます。カタカナの「ア」のような書きかたは、7世紀代によくみられるものです。玉作部の某という人物でしょう。
「飛鳥評」は安宿郡のことです。「評」から7世紀代であることがわかります。「飛鳥戸評」が正しいと思われますが、「飛鳥評」でも通じたのでしょう。「飛鳥戸」は飛鳥戸氏という氏族名に由来すると考えられます。もともと飛鳥氏だったのが、戸籍に編入されることによって飛鳥戸氏となったと考えられますので、飛鳥評でも問題ないでしょう。
問題は1行目です。「五十戸」は「サト」と読み、飛鳥(戸)評の五十戸の名称と考えられます。竹内亮氏は、□□を「志母」と読みました。これでいいとすると、「シモノサト」すなわち8世紀以降の資母郷に相当すると考えられます。線刻文字をどのように読むのかむずかしいところですが、現在のところ、もっとも合理的な読み方だと考えられます。つまり、この線刻は「飛鳥(戸)評志母乃五十戸の玉作部」の某が刻んだのではないかと考えられるのです。
ところで、鳥坂寺は大県郡にあります。安宿郡の資母郷は現在の国分周辺と考えられ、国分周辺で作られた瓦が鳥坂寺に運ばれているようです。鳥坂寺の建立に協力した知識の一員として瓦を寄進したのではないかと考えられています。
(文責:安村俊史)
写真:鳥坂寺跡出土線刻平瓦(大阪府教育委員会所蔵)