まちの魅力
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このページでは、柏原市が撮影した風景などの写真画像・動画を自由にダウンロードしていただけます。 「日本遺産柏原市」PR用フリー素材とは 「日本...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
このページでは、柏原市が撮影した風景などの写真画像・動画を自由にダウンロードしていただけます。
「日本遺産柏原市」PR用フリー素材とは
「日本遺産柏原市」に関する写真画像を紹介しており、全て無料でダウンロードできます。個人でダウンロードして楽しむほか、名刺やチラシの画像、商品の画像など柏原市のPRやイメージ向上につながるようなものに対してご利用ください。ただし、以下「使用上の注意」を遵守の上、柏原市のイメージを損ねるような用途への使用はご遠慮ください。
使用上の注意
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柏原市フリー素材集
亀の瀬
亀石
旧大阪鉄道亀瀬隧道
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【2月1日配信開始】無料バーチャル謎解きツアー「龍姫と風神さまの失くしもの」
おうちでちょっぴり観光気分♪ 柏原市・三郷町を舞台にしたバーチャル謎解きツアーを開催します 大阪府柏原市、奈良県三郷町では、両市...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
おうちでちょっぴり観光気分♪
柏原市・三郷町を舞台にしたバーチャル謎解きツアーを開催します大阪府柏原市、奈良県三郷町では、両市町をつなぐ日本遺産・龍田古道を中心に地域の魅力向上を目指して、バーチャルとリアルを融合させた3幸(観幸・健幸・振幸)プロジェクトに取り組んでいます。
このたび、コロナ禍においても両市町を知って、楽しんでいただけるツールとして、龍田古道周辺を舞台にしたスマホ上のバーチャル謎解きツアー「龍姫と風神さまの失くしもの」をつくりました。2月1日から無料で配信します。
見どころのひとつが、現地をドローンで空撮した映像。ウェブ上のバーチャル空間ならではの新たな試みとして、歩きでは体験できない非日常的な視点からも市町の魅力・見どころを発信しながら、新しい感覚で観光気分を味わってもらえるものにしました。
バーチャル謎解きツアータイトル
「龍姫と風神さまの失くしもの」
■ストーリー
柏原市と奈良県三郷町の府県境にあり、日本遺産に認定された『龍田古道』。
幼い龍姫は一人前になるために、友達の風の使いとこの古道のどこかにあるという秘宝「風袋」を探しに出ることになったが・・・実施期間
令和3年2月1日(月)から令和3年3月31日(水)まで
参加費
無料
参加方法
参加には、無料通信アプリ「LINE」を使用します(パソコン、スマホともに可能)。指定のURLを開くか、「@takarush」でID検索して友達登録を行っていただき、「龍姫」と入力いただくとゲームが始まります。
ゲーム内では、謎を解きながらヒントを得られる場所として、両市町に実在する名所や飲食店等が登場します。
散りばめられた謎を解いて、主人公・龍姫の宝探しを助けてください!■下のURLからツアーページに移動できます
https://www.takarush.jp/promo/sankoproject2021/
特典
全ての謎を解き見事宝箱を見つけた参加者には、ツアーに登場した各店舗で実際に使えるお得なクーポンをゲットできるほか、dポイント等の特典があります!
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三田家住宅 今町1丁目にあり、江戸時代に栄えた商家の姿を今に伝えています。1766年に大改修されているのみで、江戸時代の生活様式、建築様式を...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
三田家住宅

今町1丁目にあり、江戸時代に栄えた商家の姿を今に伝えています。1766年に大改修されているのみで、江戸時代の生活様式、建築様式を知るうえで貴重な資料となっています。
瑠璃光寺

行基が開いたと寺伝にあります。現在は曹洞宗。門前の小堂に阿弥陀如来像・菩薩形立像を安置し、また四天王像(4体とも木造)も寺内に保管されています。
生安寺

生安寺(しょうあんじ)は、本堂にあります。生安寺の薬師如来像は、鎌倉時代につくられたものです。
生安寺の堂前の軒下に直径30センチぐらいの鰐口がかかっています。その鰐口の銘帯に「生安寺」と書いてなくて「河内国道明寺長福寺」と書いてあります。長福寺というのは昔、藤井寺市の「道明寺」の境内にあった寺です。この鰐口は1371年の鋳造です。
元亀3年(1572年)に織田信長が古市の高原城を攻めた際、戦火でを避けるため移されそのままになったといわれています。光徳寺

奈良時代から雁多尾畑村は、龍田越えの霊地でありました。
永延2年(988年)、延暦寺の僧法円法師が来訪、円融法皇の勅願によって一宇を建立し、東広山照曜峰寺と称しました。
しかし、その後、1113年、南都の僧兵によって焼きはらわれました。
安貞2年(1228年)近江の園城寺(三井寺)の僧俊円が雁多尾畑に来り照曜峰寺を再興しました。この年、天皇の宣旨を以て、大県郡の山中において300町歩の地を寄付され東広山照曜峰寺を改めて照曜山光徳寺の勅号を賜り、堂を雁林堂といいました。
俊円はさらに親鸞の念仏門に入り松谷仏念房信乗と称しました。これ以後当寺は真宗の道場ととなりました。
現在の本堂は、明和8年(1771年)の建立で山門は宝暦年間(1750年)ごろのものです。石神社と知識寺

石神社(いわじんじゃ)は、太平寺の小高い丘陵の山腹にあり、高い石段を登った静かなところに社殿があります。
祭神は欽明天皇の皇后、石姫皇后(いわのひめのこうごう)で式内社です。
神社の鳥居前の樟(くすのき)は、周囲約6メートル、高さ約16メートル以上もある大樹で、樹齢700~800年と推定され、枝葉は天を覆っています。
境内には、奈良時代の名刹であった智識寺の東塔の礎石があり、これは府の文化財に指定されています。
礎石の柱穴の直径が122センチもあり、現在は神社の手洗い石として使用されています。
この智識寺には、その昔、天平12年聖武天皇が智識寺の廬舎那仏を参拝され、これが機縁となって東大寺の大仏建立を発願されたという話は有名です。観音寺
河内の名刹であった智識寺の流れをくみ、「拾筒之内智識寺什物」と書かれた経机が所蔵されています。
天湯川田神社

30歳になって初めてことばを発した誉津別命(ほむつわけのみこと)(垂仁天皇の皇子)のために、飛び去った鳥を出雲まで追いかけて捕らえたことにより「鳥取造(ととりのみやつこ)」の姓(かばね)を与えられたという、天湯川田桁命(あまゆかわたけのみこと)らをまつっています。
神社のある高井田を中心とした地域は、かつて鳥取郷と呼ばれ、ここを治めていたのが鳥取氏でした。また、同神社は、河内六大寺の一つ、鳥坂寺(とさかでら)の跡でもあります。大坂夏の陣古戦場跡

玉手山丘陵から大和川にかけての一帯は、大坂夏の陣で徳川方・豊臣方が激突した古戦場です。
この戦いで豊臣方を率いていた後藤又兵衛基次は傷を受けて戦闘の指揮がとれなくなり、切腹したと伝えられています。
後藤又兵衛の碑は市立玉手山公園の中にあります。
また、徳川方で討ち死にした奥田三郎右衛門、山田十郎兵衛の碑も建てられています。安福寺と玉手山古墳群

石川と大和川の合流点を眼下に望む玉手山丘陵には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳からなる前期の古墳群が形成されています。
これらの前方後円墳には、築造時期が五期以降(五期から八期までは中期古墳、九期から十一期までは後期古墳)に下降するものは知られていません。
玉手山古墳群は、前期古墳の二期から四期という短期間に複数の地域首長が、玉手山丘陵を共同の墓域に、造墓活動を繰り返した結果、形成されたものと考えられています。
玉手山の北西に位置するところにある安福寺横穴群があります。大阪府文化財の指定を受けています。
この横穴は、高井田の横穴と同じで、凝灰岩が露呈しているところに掘られてあり、短い羨道部と玄室とからなり、天井はゆるい弓形となっており、南側、北側ともに16基、計32基が見られます。
これらの横穴には、造りつけの石棺のあるもの、陶質棺が納められているもの、有名な騎馬人の壁画が彫刻されたものがあり、全国的に数少ない横穴遺跡として注目されています。
安福寺は奈良時代の僧行基の創立でありますが、中世荒れはててただ一棟の小堂あるにすぎませんでした。
寛文年間(1661年から1673年)に浄土宗の珂億上人がこの地に来て人を導き安福寺の名を四方にあらわしましたが、上人の名を一層高めたのは徳川御三家の一、尾張大納言光友(徳川家康の孫)でありました。光友は深くその学徳に帰依しました。
そして、安福寺に寺田20ヘクタールを寄付しました。次の代からは毎年40金を贈り、これが明治維新まで続いていました。
安福寺には、左側に広大な庫裡とこれに南隣して本堂が建っています。本堂は4間四面の建物で、寛文年間の造営で屋根は低く柱は太く大風や地震に耐える万世不易を期したもので建築史上珂億建てと呼ばれるものです。玉手橋

玉手橋は柏原市の所有となっており昭和3年、当時西日本では最古の玉手山遊園地(現在は市立玉手山公園)に通じる橋として近鉄の前進であった大鉄が石川に架けた長さ151メートルの鉄製五径間吊り橋です。主塔の間を開腹アーチで結んでいます。平成13年、国の文化財に登録されました。
河内国分寺跡

1200年前の奈良時代、聖武天皇の詔勅により全国に国分寺が造営されました。河内国分寺も、現在の国道25号線の南、国分東条町の丘陵台地に建造されました。北方眼下に大和川の清流があり、南には丘陵の樹木が多く、たいへん景色のよいところだったようです。河内国分寺には、七重塔が造立されていました。現在、堂寺跡には6個の礎石が残っています。
松岳山古墳
松岳山古墳(まつおかやまこふん)は、前方後円墳で4世紀後半のものと推定されています。大和川を左岸から眼下にする丘陵地に築かれた120メートルを測る前期の前方後円墳であります。周辺には、ほぼ同時期の築造とされる径30メートルの円墳、東大塚古墳を筆頭とした7基の円墳と1基の方墳が随伴しました。しかし、現存するのは、松岳山古墳の1基だけです。
大和川付け替え記念碑

大和川は、もとは本市通称「築留(つきどめ)」から北上して淀川へとそそいでいました。ところが、河内平野は低湿地であるため、たびたび洪水を起こしていました。そこで、宝永元年(1704)に付替え工事が行われ、本市から西、堺の方へ流れる新大和川(現在の流路)が開通しました。現在、築留には、この付替えの功労者・中甚兵衛(なかじんべえ)の銅像や付替え関係の碑などが建ち、公園として整備されています。
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平安初期的歌者,在原业平。是六歌仙与三十六歌仙中的1人,据说容貌秀丽俘虏了很多女性。 他前往高安的河内姫之处时被认为通过的路被称作「业平道」,但也有通过...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
平安初期的歌者,在原业平。是六歌仙与三十六歌仙中的1人,据说容貌秀丽俘虏了很多女性。
他前往高安的河内姫之处时被认为通过的路被称作「业平道」,但也有通过柏原市的路线。此路的一部分与路中的名地在地图中都有介绍。
※在这里介绍的路,一边参考众说的业平传说,一边介绍适合徒步旅行的路线。●下载PDF A3版(1页・约2.8MB) A4版(分为2页・约1.8MB)
※阅览PDF文件需要专用软件(ADOBE READER)。
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【周遊モデルコース募集】わたしがおすすめする、柏原市の見どころはココ!
市は、観光客へのおもてなしにつなげることを目的に、皆さんだからこそ知っている“とっておきの場所”や“おすすめスポット”などを巡る周遊モデルコースを...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
市は、観光客へのおもてなしにつなげることを目的に、皆さんだからこそ知っている“とっておきの場所”や“おすすめスポット”などを巡る周遊モデルコースを募集します。柏原市を愛する方であれば、どなたでもご応募いただけます。皆さんのオリジナルの楽しいコースをお待ちしています!
募集期間
8月2日(月)から8月31日(火)まで
※どなたでも。一人につき複数応募も可能です。応募方法
8月2日(月)から8月31日(火)の間に、にぎわい観光課窓口で配布する応募用紙(以下からダウンロード可)に記入または入力の上、にぎわい観光課へ持参(平日のみ)、郵送またはメール(件名は「おすすめ観光ルート応募」としてください)で提出。応募者先着30 名に柏原市オリジナル手ぬぐいをプレゼントします!
応募用紙ダウンロード
下の2種類用紙(提案シート・記入シート)にご記入のうえご提出ください。
- 柏原市周遊モデルコース【提案シート】(PDFダウンロード)(WORDダウンロード) ※記入例はこちらをクリック
- 柏原市周遊モデルコース【記入シート】(PDFダウンロード)(WORDダウンロード) ※記入例はこちらをクリック
注意事項
- 応募者は、紹介した場所やルートを柏原市が各種媒体に掲載することを了承したものとします
- 都合により掲載できない場合があります。
- 特定の店舗の広告になるような応募はお控えください。
- 応募者の氏名、ペンネームなどを公表する場合があります。
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八尾市×柏原市×るるぶ!! フリーペーパー『るるぶ特別編集 八尾・柏原』
本市は、八尾市と共同で、歴史、自然に恵まれた両市の魅力をたっぷり詰め込んだフリーペーパー『るるぶ特別編集 八尾・柏原』を作成しました。 両市の名...(2021年8月1日 にぎわい観光課)本市は、八尾市と共同で、歴史、自然に恵まれた両市の魅力をたっぷり詰め込んだフリーペーパー『るるぶ特別編集 八尾・柏原』を作成しました。
両市の名所・旧跡、グルメスポットはもちろん、2014年・2015年が、大坂冬の陣・夏の陣から400年という節目を迎えることを受け、八尾・若江の戦いや柏原市における小松山の戦いなど、大坂夏の陣の舞台となった古戦場についても、特集ページを設けて紹介しています。
秋の訪れを感じるこの季節、るるぶを片手に、ぜひ八尾市・柏原市にお越しください。
冊子は、柏原市役所をはじめ、両市の公共施設はもちろん、関西空港やOCATバスターミナル、難波や天王寺のJTB各店舗、心斎橋を中心とするホテル等で無料配布しています。

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玉手山物語 玉手山古墳群 安福寺横穴群 ...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
玉手山物語
玉手山と大坂夏の陣
1.総 説
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌・慶長20年(1615)の夏の陣と、2度にわたって豊臣氏と徳川氏の最終決戦が行われた。ここ玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃って討ち死にした地でもある。
戦いは、要衝「小松山」の争奪をめぐって行われた。小松山とは、現在、市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているあたりで、市立玉手山公園を始め、片山から玉手、円明にかけての一帯が戦場となった。
玉手山公園内など、付近一帯には、又兵衛基次の碑を始めとして、両軍戦死者供養塔や戦跡碑、徳川方の武将の墓などが残されている。2.大坂冬の陣への序曲
慶長3年(1598)、太閤・豊臣秀吉、没。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受け、天下の実権をほぼ手中におさめた。他方、秀吉の遺児、豊臣秀頼は、関ヶ原の戦いの後、摂河泉(現在の大阪府の全域と兵庫県の一部)65万7千石の一大名に転落した。
しかし、天下の名城・大坂城にあって莫大な金銀を貯える秀頼は、家康にとって、依然、あなどりがたい存在であった。そこで、家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた。その中の一つが京都東山・方広寺大仏殿の再建工事である。
当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など。
方広寺大仏殿は、慶長17年(1612)に完成。同19年には大仏の鐘も完成したが、家康は、このとき鋳造された鐘銘の中に「国家安康、君臣豊楽」とあるのに、いいがかりをつけ、豊臣氏を挑発した。すなわち、「家康」の名を「国安」で切って家康を呪っている、
「君臣豊楽」とは、豊臣を主君として楽しむの意味だ、というわけである。
この一件の弁明のため、片桐且元が家康のもとに向かったが、この且元が豊臣氏から裏切り者の汚名をかぶせられ大坂城から退けられるに至って、ついに両者の戦いは避けられない情勢となった。
かくして、勃発したのが、大坂冬の陣である。
玉手山公園内の後藤又兵衛しだれ桜と後藤又兵衛基次の碑3.大坂冬の陣の戦闘経過
冬の陣は、主として、篭城戦で戦われた。豊臣方の兵力は約10万、徳川方の兵力は約20万(一説には約30万)といわれる。
慶長19年(1614)10月23日、徳川家康、軍勢を率いて京に入る。
10月26日、藤堂高虎、家康の命を受け、河内国府に本陣をおく。
11月 3日、高虎、枚方方面から南下した松平忠明らと呼応、平野口から住吉に進撃。
11月 5日、豊臣方の薄田兼相、平野口に出撃。徳川方の来襲をきき、急ぎ大坂城に入る。
11月 6日、高虎、浅野長晟、住吉に布陣。松平忠継、有馬豊氏、中島に布陣。加藤明成、神崎から北中島に進撃。
11月15日、家康、二条城を進発、奈良に至る。徳川秀忠(将軍、家康の嫡男)、伏見から枚方に到着。
11月17日、家康、住吉に布陣。秀忠、平野口に至る。
11月19日、秀忠、住吉の家康本陣に到着。軍議の後、攻城の準備を終える。
11月25日、家康、大坂城の堀の水をからすため、淀川に春日井堤を築くべく、伊奈忠政に工事の監督を命じる。
佐竹義宣、上杉景勝、豊臣方の鴫野、今福の砦を占領。
野田、福島も徳川方の手に落ちる。家康、このころから和議交渉を始める。
11月29日、徳川方の蜂須賀至鎮、石川忠総ら、阿波座、土佐座を攻略。
12月 2日、家康、茶臼山に本陣を進める。以後、大坂城の攻防が続く。
12月16日~19日、家康、約300門の大砲で大坂城を砲撃させる。
12月22日、和議成立。4.大坂夏の陣の勃発
和議の条件として、徳川家康、秀忠から豊臣氏に、次の5カ条の誓紙が出された。
1 大坂城に篭城した浪人達の罪は問わない。
2 秀頼の知行は、以前のとおりとする。
3 淀君(秀頼の母)は、江戸に下る必要はない。
4 秀頼が大坂を立ち退くというなら、どこへ行こうと望みしだいである。
5 家康、秀忠は、秀頼に対して、いささかも不信行為はしない。
そして、和議の条件として、大坂城の外堀と内堀は埋め立てられ、二の丸と三の丸も破壊されて、大坂城は本丸だけの「はだか城」とされた。しかし、和議は、豊臣氏に味方した、立身出世や仕官を望む浪人達にとっては失業を意味した。このため、大坂城内では、しだいに再戦を望む声が高まって行き、埋め立てられた堀の復旧工事などが開始された。
これを知った家康は、先の誓紙をひるがえし、豊臣氏に対して、「城中の浪人をすべて追放するか、豊臣氏は大坂城を出て伊勢か大和へ移れ」との要求をつきつけた。
ここに至って豊臣氏の怒りは爆発、ついに再戦が決せられた。夏の陣の勃発である。しかし、本丸だけの「はだか城」では、冬の陣のときのように篭城戦法に頼るわけにはいかない。そこで、豊臣氏は、徳川氏に野戦を挑むこととした。5.大坂夏の陣の戦闘経過
夏の陣の主戦場は、河内であった。豊臣方約5万、徳川方約15万5千といわれる。
慶長20年(1615)4月28日、豊臣方の大野治房ら、泉南の樫井で徳川方の浅野長晟らと合戦。豊臣方の塙団右衛門、討ち死に。豊臣方は、治房の報告により、徳川方が、河内街道からだけでなく奈良街道からも進撃して来ることを知る。
5月1日、豊臣方の後藤基次、薄田兼相ら平野に出陣。真田幸村ら天王寺に布陣。
5月5日、家康、京を進発。秀忠、伏見を進発。徳川方の先陣・藤堂高虎、河内千塚に布陣。井伊直孝、楽音寺に布陣。水野勝成、河内国分に布陣。徳川方の本多忠政、松平忠明、伊達政宗らの諸隊も河内に到着。伊達隊の先鋒・片倉重綱、片山に布陣。
5月6日、後藤基次、小松山で徳川方の諸隊と激突して、討ち死に。小松山の戦い。薄田兼相、道明寺河原の戦いで討ち死に。豊臣方の残兵、藤井寺・誉田森へ退却。豊臣方の木村重成、佐久間忠頼らの諸将、八尾・若江で相次いで討ち死に。豊臣方の真田幸村、毛利勝久ら大坂城に退却。
5月7日、真田幸村、家康の本陣に突入して討ち死に。徳川方も本多忠朝、小笠原秀政ら討ち死に。
5月8日、大坂城落城。秀頼、淀君らは自害。豊臣氏、滅亡。一説によると、毛利勝永が秀頼の介錯をつとめ、その後に自害したという。
5月8日、天晴 巳刻に至り大坂城落つ、秀頼公、同御袋、そのほか女中20人ばかり自害の由也、打ち死にの衆2万ばかりの由也、(中略) その夜、もってのほか雨降る。(梵舜日記)6.両軍の作戦
徳川方は、紀伊方面からの部隊のほか、本隊と別働隊の2隊に分かれて大坂城を目指した。家康、秀忠以下約12万の本隊は生駒山麓西側の高野街道を進む河内路を、伊達政宗ら約3万5千の別働隊は奈良・法隆寺方面から河内に入る大和路をとった。
道明寺方面で合流し、その後に平野、住吉方面から大坂城に攻め上ろうとの作戦である。
これを知った豊臣方では、徳川方が合流する前に機先を制して各個撃破する、との方針を立てた。木村長門守重成(約4千7百)と長宗我部宮内少輔盛親(約5千)が高野街道を南下する徳川方本隊を八尾・若江で側面から攻撃し、後藤又兵衛基次(約2千8百)、薄田隼人正兼相(約4百)、真田左衛門尉幸村(約3千)、毛利勝永(約3千)らは、国分の狭路を通って河内に入って来ようとする別働隊を迎え撃とうというのである。
大坂城に守備兵力のほか約1万の予備兵力を配置し、八尾、国分、紀伊の3方面で徳川方を迎え撃つ。勝機のつかめそうな方面に予備兵力を投入して徳川方に打撃を与え、兵力差をできるだけ縮めて後、全兵力を大坂城に戻して態勢を整え最終決戦にのぞむ、というのが、豊臣方の戦略であった。
しかし、豊臣方の動きは、忍者からの報告などにより徳川方に筒抜けであったのに対し、豊臣方では今ひとつ情報収集力に欠けるところがあった。そのうえ、諸隊の動きが統一性を欠くなど、いくつかの問題点をかかえていた。7.小松山の戦い(国分・道明寺の戦い)
5月1日、後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相ら平野に到着。真田幸村、毛利勝永ら天王寺に布陣。
5月5日、幸村らは、基次と会合、6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を迎え撃つことを約した。
同日夜、基次は、約2千8百の軍勢を率いて平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着した。しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定どおり到着できなかった。しかも、基次ら豊臣方の動きは、すでに徳川方の知るところであったという。
このため、基次は単独で道明寺に進出したが、このときすでに徳川方は国分に入ってしまっていた。そこで、基次は、後続の諸隊を待つことなく、先鋒の山田外記、古沢満興に命じて、石川を渡り、当初の作戦どおり、小松山を占領させた。
山田外記の旗幟が山上に立ったのを見た基次は、急ぎ本隊を小松山に登らせた。
午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで、小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられた。しかし、徳川方は、水野勝成隊(約3千8百)、本多忠政隊(約5千)、松平忠明隊(約3千8百)、伊達政宗隊(約1万)の合計2万3千もの兵力。初めは優勢だった後藤隊も衆寡敵せず、しだいに圧倒されて三方から包囲された形になり、基次は討ち死に、後藤隊も壊滅してしまった。時に6日午前10時ごろ、激闘実に6時間であった。
基次の討ち死にの原因は、「矢きずを負って」とも「鉄砲に胸を撃たれて」ともいわれている。負傷した後に自害した。吉村武右衛門が介錯したという。
徳川方でも奥田三郎右衛門忠次、山田十郎兵衛らが討ち死にしている。
「軍兵大勢討死。大坂方は猶もって大勢打死。この三村(円明村、玉手村、片山村)の地、あき間もなきほど死体ありける」(河内鑑名所記、延宝7年・1679著者は柏原の人、三田浄久)薄田兼相、明石掃部、真田幸村、毛利勝永らの諸隊は、基次討ち死にの後、道明寺に到着。薄田隊は、総くずれとなって、兼相は討ち死に。明石隊は、徳川方の攻撃を防ぎつつ後退。毛利隊は、敗走して来た将兵を収容して撤退。真田隊は、味方諸隊の撤退援護のため誉田村に前進、伊達隊の攻撃を撃退し敗走させたものの、八尾・若江方面の戦いで木村隊が壊滅したとの報告を受け、大坂城へ撤退した。
八尾・若江方面の戦いでの木村重成の討ち死にと木村隊、長宗我部隊の壊滅は、6日昼すぎのことであった。濃霧の中での遭遇戦で、徳川方の藤堂高虎、井伊直孝らの隊も大きな損害を出した。現在、玉手山公園内に「後藤又兵衛基次の碑」、「吉村武右衛門の碑」、「両軍戦死者供養塔」、「後藤又兵衛しだれ桜」(平成12年2月植樹)が、周辺には「大坂夏の陣古戦場碑」、「後藤又兵衛奮戦の地碑」、「奥田三郎右衛門の墓」、「山田十郎兵衛の墓」などがある。
参考文献
「柏原市史」第3巻 (柏原市 1972年3月)
「かしわらの史跡」 (重田堅一、柏原市 1992年3月)
「図説再見大阪城」 (渡辺武、(財)大阪都市協会 1983年9月)
「歴史群像シリーズ40 大坂の陣」(学習研究社 1994年12月)
「歴史群像」No41所載「決戦!大坂の陣」(河合秀郎)(学習研究社 2000年2月) -
この樋は宝永元(1704)年に付け替えられた大和川から農業用水として旧川筋の一つである長瀬川に取水するものです。記念公園に建つ碑の一つに、明治21(188...(2021年8月1日 にぎわい観光課)
この樋は宝永元(1704)年に付け替えられた大和川から農業用水として旧川筋の一つである長瀬川に取水するものです。記念公園に建つ碑の一つに、明治21(1888)年に完成したものであると記されています。アーチ部の最大幅は157センチを測り、基本的にイギリス積みを採用し、面壁の下半のみ長手積みとしています、アーチの形は鉄道トンネルのように馬蹄形をしています。これは水路や樋門としては非常に珍しいものです。各壁の天端には花崗岩が載せられ、床面にも花崗岩が敷かれています。内部は薬剤注入やコンクリートにより補強されており、詳しい構造は分かりません。
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「伝統技術」染色法 注染~浪華本染め~ 注染は、明治時代に大阪で生まれた伝統的な染色技法であり、生地の染色したい場所に糊で土手を作り、...(2021年8月1日 にぎわい観光課)


「伝統技術」染色法
注染~浪華本染め~
注染は、明治時代に大阪で生まれた伝統的な染色技法であり、生地の染色したい場所に糊で土手を作り、染料を注ぎ込み染色する技法です。手作業でありながら多彩な柄、小紋などの微妙なタッチや独特の色合いを出すことや、ぼかし等の技法を活かすことで、立体感やなごみを表現することができますが、熟練した技術が必要となります。
この注染は柏原市の古くからの伝統産業であり、2019年には浪華本染めという名称で日本の伝統的工芸品に指定されました。≪注染の工程≫
1 糊置き
柄の中で染料をつけたくないところに糊をのせます。柄に合わせて糊付けを繰り返す折り返しには相当の熟練が必要で、注染の技法では、この糊置きという工程が非常に重要となります。

2 注ぎ染め
染料を注ぐ部分に土手を作り、土手の内側に染料を十分に注ぎ込んで染めます。表からも裏からも染めるのが特徴です。
3 水で流す
染め終わった生地についた余分な糊と染料を水で洗い流します。4 干す
水洗いの終わった生地を天日乾燥で立干しします。染め上げられた生地がいくつも干されている様は壮観です。
詳しくは「注染 -浪速本染め-」 公式サイトよりご覧ください。
柏原とゆかた

ゆかたの由来
昔は湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれ、公家や武家が入浴や湯上がりに湯気をぬぐいさるために着た麻の単衣のことを言いました。 江戸時代後期に今の木綿地になり一般大衆に広まったようです。
柏原のゆかた地染色の歴史
柏原で布地の染色が始まったのは、明治の末期から大正のはじめごろです。当初は、手ぬぐいの染色が主でしたが、大正13年頃からゆかたの染色が多くなってきました。
染色には、きれいな水が多く必要であったため、旧大和川の川床筋である上市・古町地区に豊富な伏流水を利用した染色の工場が多く建ち並んでいました。
当時は、漂白した木綿を乾燥させるため大和川の堤防上一面に純白の木綿地が干されている光景がみられましたが、現在は、「屋上さらし」といって建物の屋上に櫓を組んで乾燥させる方法と、室内で熱風による方法が行われています。現在では工場の数も少なくなりましたが、伝統的な技法を守りながら、設備の近代化や技術の改良によって現代感覚にマッチしたゆかたが作られています。現在のゆかた生産
柏原市のゆかたは、最盛期には全国生産量の約25%(約250万反)を占めていました。しかし、最近では中国などから機械染めゆかたの輸入が増加し、全国的にも生産量が減少している中、柏原市においては7社ほどの染物工場で年間約8万反の生産が続けられています。
柏原市内の染工場の紹介(順不同)
◆市岡染工場
伝統工芸士
市岡 靖昌 氏
所在地
〒582-0001 柏原市本郷1丁目5-23
TEL:072-972-0391
FAX:072-972-0391
主な取り扱い品または染物
注染ゆかた、注染手拭い◆神奴染工場
伝統工芸士
神奴 典兒 氏
所在地
〒582-0008 柏原市古町2丁目7-2
TEL:072-972-0588
FAX:072-972-0588
主な取り扱い品または染物
注染手拭い◆水本染工場
伝統工芸士
水本 雅祥 氏
所在地
〒582-0007 柏原市上市3丁目14-15
TEL:072-972-0328
FAX:072-972-0321
主な取り扱い品または染物
注染手拭い◆澤染工場

伝統工芸士
澤 隆政 氏
所在地
〒636-0143 奈良県生駒郡斑鳩町神南3丁目3-5
TEL:0745-74-6370
FAX:0745-74-6371
主な取り扱い品または染物
注染手拭い、注染ゆかた




















