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その他の古墳 玉手山古墳群には、100mクラスの前方後円墳よりもやや規模の小さい60~80mクラスの前方後円墳がみられます。また、さらに規模の小さ...(2016年7月21日 文化財課)
その他の古墳
玉手山古墳群には、100mクラスの前方後円墳よりもやや規模の小さい60~80mクラスの前方後円墳がみられます。また、さらに規模の小さい円墳も数基あったようです。これらの古墳の中から、内容がわかっている古墳を紹介しておきたいと思います。
2号墳は1号墳の南にあり、墳丘全体が玉手地区の墓地となっています。現状では前方後方墳のようにも見えますが、前方後円墳です。全長は80m前後と推定されます。かつて後円部の西斜面から石棺が出土したという地元の人の目撃談があります。
4号墳は3号墳の南西にあり、全長50~60mの前方後円墳と考えられますが、開発によって消滅してしまいました。埋葬施設は粘土槨で、組合式の木棺を粘土で薄く覆った構造だったようです。玉手山古墳群では竪穴式石室を埋葬施設とするものが大半ですが、粘土槨となる唯一の例です。副葬品は鉄刀剣、鉄鏃、銅鏃、漆塗りの盾などが出土しています。また、前方部前面付近で箱形石棺と埴輪棺が確認されています。
5号墳は全長75mの前方後円墳ですが、開発によって消滅しています。後円部の中心に竪穴式石室があり、その西に粘土槨、前方部にも二基の粘土槨がありました。副葬品として、竪穴式石室から巴形銅器、鉄鏃、銅鏃など、粘土槨からは石釧などが出土しています。
6号墳は全長69mの前方後円墳ですが、やはり開発によって消滅しています。後円部には中央とその東に二基の竪穴式石室があり、東石室は市立玉手山公園内の7号墳の南に移設されています。中央の竪穴式石室から画文帯神獣鏡、小札革綴冑などが出土しています。東石室からは内行花文鏡などが出土しています。
8号墳は全長80m前後の前方後円墳と考えられますが、よくわかっていません。
10号墳は北玉山古墳とも呼ばれ、西名阪自動車道の建設によって調査後に破壊されました。全長は51mで、後円部に竪穴式石室、前方部に粘土槨がありました。玉手山古墳群ではもっとも年代の下る古墳の一つと考えられます。
また、安福寺の境内には割竹形石棺の蓋が保存されています。玉手山3号墳から出土したと伝えられ、香川県の鷲ノ山の凝灰岩を刳り抜いて造られています。周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線から成る複雑な線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。
(文責:安村俊史)
安福寺割竹形石棺
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幕末の一揆 幕末の大きな社会変動は、一農村である国分村にも少なからぬ影響を与えたようです。村の有力者は、海岸警備や長州出兵などに伴って、幕府に多額...(2016年6月10日 文化財課)
幕末の一揆
幕末の大きな社会変動は、一農村である国分村にも少なからぬ影響を与えたようです。村の有力者は、海岸警備や長州出兵などに伴って、幕府に多額の献金を行っていました。それによって、苗字を名乗ることを許された人もいたようです。一方、村人は物価の高騰に生活が脅かされていました。そして、慶応2年(1866)に、河内で最後の一揆といわれる騒動がおこりました。米価の高騰に困る村人たちが、村の米屋を次々と襲ったのです。
5月16日の夜、大和川の堤で早太鼓を叩いて30~40人の村人が集まってきました。集まった村人は、米屋四郎右衛門、久助、利七、栄吉、定七の5軒の米屋を次々と襲って乱暴をはたらきました。その間に、酒造業を営んでいた米屋順之助宅(北西尾家)から酒樽も持ちだしていました。その後、西光寺・西法寺の釣鐘を鳴らして村人を集め、家へ帰るように説得する村役人にもまったく応じませんでした。
翌17日は明け方から西光寺へ村人が集まり、反別五斗ずつの米を与えること、十月まで一人一日四合の米を半値で売ること、六升の年貢を四升にすること、これを承知しなければ、竹槍で村役人の家を壊すと訴えたため、村役人も承知せざるを得ず、村人を家に帰して騒ぎは一端治まりました。
これを聞いた代官らは、騒動をおこした者たちを厳しく取り締まることにし、22日に番人ら約200人を動員して村人10人ほどを召し捕えました。しかし、これに怒った村人らは、逆に竹槍を持って番人らを追いかけまわし、捕えた者たちを解放させました。
しかし、23日の夜に郡山藩などに応援を求めて1000人以上によって騒動は鎮圧されました。その結果、130人ほどを召し捕り、うち9人は引き立てられて行ったようです。これによって、騒動は終結しました。
幕末には各地で一揆が続発しましたが、ここ国分村でも大きな騒動があったのです。『多羅尾様御支配 当村一起乱妨一件荒増控』には、その経過が記録されています。米価の高騰に困る村人、そしてそのために竹槍で武装する村人、幕末の大きな混乱の中に、国分村の人たちも呑み込まれていったようです。
企画展「江戸時代の国分村」では、江戸時代の国分村をさまざまな面から紹介しています。地形模型なども展示していますので、ぜひご覧ください。
(文責:安村俊史)
『当村一起乱妨一件荒増控』
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立教館の創立 国分村出身の柘植常煕(本名卓馬、葛城とも)が中心となって開いた私塾が立教館です。常煕は、文化元年(1804)に国分村で生まれ、幼少か...(2016年6月8日 文化財課)
立教館の創立
国分村出身の柘植常煕(本名卓馬、葛城とも)が中心となって開いた私塾が立教館です。常煕は、文化元年(1804)に国分村で生まれ、幼少から優秀で大坂懐徳堂の中井碩果に学び、その後頼山陽のもとで学びました。しかし、家業である医師を継ぐために京の医家小石元瑞のもとで学び、文政13年(1830)、26歳のときに国分村に帰って医業に専念することになりました。頼山陽は、常煕の才能を惜しんで学問をつづけるように説得したようですが、常煕は家業を継ぐために村に帰ったのです。
常煕は、国分村の有力者らの財政的援助を受けて、村に私塾をつくることにしました。そして、古市の高屋城にあった江見定四郎の別荘を買い取り、天保12年(1841)に村の風戸にあった明円寺の境内に学舎を新築して立教館を創設しました。その後狭くなったため、文久3年(1863)に新町の東に移転して新学舎が建築され、元治元年(1864)に完成しました。
その立教館の増改築や運営に関わる史料が多数残されています。文久3年の『立教館新造記録』には、増改築にともなう大工の人数や竹木の購入、近隣からの手伝いなどが日付ごとに記録されていいます。元治元年の『日雇附込帳』には、元治元年7月から翌年2月までの毎日の手伝いの人数と名前が記録されています。同じ元治元年の『諸色買物帳』には、道具や食料などの買物が購入先別に記録されています。
立教館での教育方針を書かれた「立教館記」などをみると、儒学教育を基本に「治世之才」を育成することを目的としていたことがわかります。儒学とともに、漢詩や漢文の教育も行われ、道徳的な側面の強い教育だったようです。
その後、建物の大破や移転などのため経営に行き詰まったときもあったようですが、多いときには60~70人もがここで学んだといいます。村内だけでなく、村外からの通いや寄塾生も多かったようです。
明治になると、学校への転換を図るために嘆願をくりかえし、その結果、明治4年(1871)に堺県によって認可されて「国分村小学校立教館」となりました。そして、明治6年(1873)にニ十五番小学校となり、現在の柏原市立国分小学校へとつづいています。
立教館の建物は、大阪府の旧規則により府史跡となり、移設を繰り返しましたが、現在も関西福祉科学大学の校内に保存されています。
(文責:安村俊史)
『立教館新造記録』ほか
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洪水との戦い 田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受け...(2016年6月6日 文化財課)
洪水との戦い
田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受けないようにしました。さらに、この堤の外側(川側)に、もう1本の堤を築いて二重堤とし、強固なものにしていました。2本の堤の間には、畑も開かれました。
この川側の堤は、その裾に杭を打って堤が崩れないようにするとともに、川の流れに対して鈍角になるように多数の杭を打っていました。これを「杭出し水制」といい、堤を守るために水の流れを緩やかにしたり、流れる方向を変えたりするものでした。このように、杭などによって堤を守る施設を水制といいます。
ところが、寛政4年(1792)の出水によって川側の堤が2箇所で破損し、それ以降、堤の復旧と維持にかなり苦労したことが史料によってわかります。寛政7年(1795)に堤奉行に提出された絵図が、三枚一組で残っています。堤が被害を受ける前の安永10年(1781)、破損した直後の寛政4年、治水工事後の寛政7年の3枚です。寛政4年の堤破損後、菱牛(菱枠)を設置し、川の中央を掘り下げて水の流れを変えています。菱牛とは、丸太を四角錐状に組み上げたもので、これを川の中に置いて水の流れを変えました。牛は水制の一つとして関東などでよく見られる方法ですが、大和川でも使用されていたことが、この一連の絵図で確認できました。この菱牛を7組2列に置いて、堤を守ろうとしたようです。
ところが、この対策はあまり効果がなかったようです。寛政7年の絵図では、菱牛を迂回して水の流れがもとに戻り、堤が完全に破壊されたことがわかります。水は本堤である柳原堤に迫っています。柳原堤が決壊すると、再び大きな被害が生じることになります。そこで、何とか修理してほしいと願いでたものです。
その結果、治水工事が行われたことが寛政8年の絵図によってわかります。この絵図によると、菱牛は41基に増え、多数の杭を打って治水工事を実施したようです。しかし、堤を復旧することはあきらめたようです。
これらの絵図によって、寛政4年の出水による被害の状況と、その前後の治水対策のようすがわかります。ほかでは見られない菱牛の設置など、国分村の人々がこの地の堤、そして水田を守るために、とても苦労をし、膨大な費用を費やしていたことがわかります。くわしくは、当館の館報27号で紹介していますので、ご参照ください。
(文責:安村俊史)
寛政4年、7年の絵図
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新町と国分船 田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤など...(2016年5月30日 文化財課)
新町と国分船
田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤などと呼ばれました。それまでも堤はあったのですが、大きなものではなかったようです。そして、堤の南側には水はけの悪い水田が広がっていました。奈良街道は、この堤の上を通っていましたが、広い道幅がとれず、洪水で道が崩れることもあったと考えられます。しっかりした堤を築いたことによって、堤の南側を埋め立て、そこに奈良街道を移して街道の両側に建物を建築しました。それまでの村は東の台地上に広がっていましたが、これによって村は西へと長くのび、この地は新町と呼ばれるようになりました。新町は、街道に面する町場として、さまざまな商売を営む人たちが住みつき、その後の国分村の発展に大きな役割を果たすことになりました。
新町を開くとともに、国分船の運航も開始されました。国分船は、寛永16年(1639)に28艘で始められ、正保元年(1644)に35艘に増えました。大和川を大坂の京橋まで、上流は亀の瀬まで、また石川を遡って富田林まで運行していました。大坂からは干鰯などの肥料などを運び、大坂へは綿などを運びました。
国分船は、旧大和川を運行する剣先船仲間に属し、古くからの古剣先船221艘に含まれます。剣先船は、舳先が剣のように尖った平底の川船でした。長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m)で、十六駄(2160kg)積みでした。普通は6尺で1間ですが、ここでは5尺で1間と数えます。宝永元年(1704)の大和川付け替え後は、大坂から南へ下る十三間川を通って大和川河口に入り、明治まで営業を続けていました。
国分船の船着場は、現在の国豊橋のすぐ上流に設けられました。大和川上流の亀の瀬には魚梁荷場(やなにば)という船着場があり、ここで荷揚げされた荷物は、陸路で峠を越えて大和に入り、再び船に積み込まれて大和各地へ送られました。魚梁荷場には龍王社(浜神)という祠があり、寛政3年(1791)に剣先船仲間が奉納した石灯籠が残っています。
田輪樋・風戸堤の築造、国分船の運航などは、国分村の有力者によるものですが、ときの領主の稲垣重綱の理解や支援も大きかったようです。東条墓地に「小禹廟」と呼ばれる石塔があります。宝暦3年(1753)5月に、稲垣重綱の百年忌に際して国分村の船持仲間が建立した石塔です。国分村の人々は、この石塔を「小禹廟」と呼び、稲垣重綱の功績を治水事業によって中国の夏王朝を創始したといわれる禹になぞらえて称えました。
(文責:安村俊史)
龍王社の石灯籠
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田輪樋 国分村の北を流れる大和川は、芝山を迂回して大きく北へ湾曲しています。当然ながら、芝山の南側の堤防への水当たりが強くなり、芝山の南側は古くか...(2016年5月23日 文化財課)
田輪樋
国分村の北を流れる大和川は、芝山を迂回して大きく北へ湾曲しています。当然ながら、芝山の南側の堤防への水当たりが強くなり、芝山の南側は古くから洪水の被害を何度も受けてきました。この地には何度も水田が開かれたようですが、すぐ水につかり、一度たまった水はなかなか引きませんでした。この排水不良を改善するために芝山の西に掘削されたのが田輪樋です。地元では、「たのわのひ」あるいは「たのひ」と呼ばれています。
領主であった稲垣摂津守重綱の協力を得て、国分村の東野伊右衛門が寛永年間(1624~44)に工事に着手し、正保元年(1644)に完成したようです。芝山の周辺は、玄武岩や安山岩という堅い火山岩でできています。これを芝山火山岩といいますが、この堅い岩盤を掘り進めてトンネルを掘るのですから、それはたいへんな工事だったでしょう。「金山堀」という記録があることから、鉱山を掘削する技術者や労働者を雇って掘り進めたようです。
樋の長さは123間(224m)で、内法は5尺(150cm)四方でした。樋の内側は四面とも板張りでした。板一枚の長さは5尺(150cm)、幅は1尺5寸(45cm)、厚さが4寸(12cm)の杉板でした。この板を横長に並べ、板と板はかすがいで打ち付けられていました。板の内側の寸法は4尺2寸(127cm)四方になります。岩盤なので板は必要ないようにも思うのですが、節理面で崩落しやすい玄武岩の性質による措置だったのでしょう。
樋の入口部分には、水量を調節する戸関が二箇所に設けられていました。一箇所は南からの悪水(排水)を抜くもので、本来の目的のものです。もう一箇所は田へ水を送る用水の余った水を流すためのものでした。樋の出口は大和川に開いています。そして、出口から水が逆流するのを防ぐため、川の左岸と平行に長さ135間(245m)もの堤が築かれていました。
この樋が設置されたことにより、400石余りの水田が上田に回復するとともに、37石の新田を開くことができました。この樋の設置に尽力した東野伊右衛門は、新田のうち2石4斗5升の高の土地を永代にわたって年貢のかからない除地とすることが認められていました。江戸時代の樋は昭和25年(1950)のジェーン台風で壊れ、その西側に新しく築かれた樋が現在も使用されています。
(文責:安村俊史)
「田輪樋御普請所絵図」
本企画展のポスターや図録の表紙に使っている絵図です。紙をめくっていくと、樋の内部が見えるように工夫されています。 -
祭りで暴れる若者 国分村の人が、町奉行に申し出た一通の嘆願書があります。差出人は、定四郎が幼少のため代理として周助という人物によるものとなっていま...(2016年5月16日 文化財課)
祭りで暴れる若者
国分村の人が、町奉行に申し出た一通の嘆願書があります。差出人は、定四郎が幼少のため代理として周助という人物によるものとなっています。そこには次のようなことが書かれています。
文政4年(1821)の6月12日、氏神(国分神社)の神事があり、村の人たちはみんな休みでした。そのとき、国分村新町の若者たちが大勢集まって、だんじりを出してきました。そして、十人ばかりの若者が、定四郎の家へ庭の木がじゃまになるので切ってくれと言って来ました。しかし、以前からある木なので切られるのは困ると村の月番庄屋へ切らないように言ってくれとよくよく頼んだのですが、庄屋の代理である年寄兵右衛門は十分に対応してくれませんでした。そのあと、若者たちは家へやってきて、木を切るだけでなく屋根瓦なども壊して家の中にも入ってきそうな勢いでした。家には幼い者と女しかいないので、抗議をすることもできずにこわい思いをしていました。
もう一度兵右衛門に相談に行ったところ、不在で対応してもらえませんでした。家の者は怖くてみんな逃げだしてしまい、いったいどうすればいいのだと思い悩んでいました。
すると、その夜中に何者かが石や瓦を持って、家の門を打ち壊しに来たようです。夜中だったので、みんな逃げてしまって誰のしわざかわかりませんでした。しかし盗賊のしわざとは考えられません。村の乱暴者のしわざだと思われますが、抗議できる者もおらず、ほんとうに嘆かわしいことだと思っております。恐れおおいことではありますが、御奉行様に申し上げさせていだきます。もっとも、だれのしわざかを探してほしいとは思っておりません。お耳に入れておいていただければ、それで結構です。
村の若者の乱暴に困っている様子がよくわかる嘆願書です。この嘆願書が実際に提出されたのかどうかはわかりません。
(文責:安村俊史)
「乍恐以書附奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)」
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柏原市では、柏原市立歴史資料館及び史跡高井田横穴公園の円滑な運営と効率的な活用を図り、郷土の文化的遺産を広く公共の利用に供し、市民の教育文化の向上に資す...(2016年5月11日 文化財課)
柏原市では、柏原市立歴史資料館及び史跡高井田横穴公園の円滑な運営と効率的な活用を図り、郷土の文化的遺産を広く公共の利用に供し、市民の教育文化の向上に資するため歴史資料館に柏原市立歴史資料館等運営協議会を設置しています。今年度の運営協議会会議は、下記の日程で開催されることになりました。
会議は、市民(市内在住・在勤・在学の方)も傍聴することができます。傍聴希望者は、歴史資料館までご連絡ください。
日時 平成28年5月18日(水) 午後2時~4時
場所 柏原市立歴史資料館研修室 柏原市高井田1598-1(電話:072-976-3430)
案件 1.会長。副会長の選出 2.平成27年度事業報告 3.平成28年度事業計画 4.その他
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夏祭りをしたい! 天保2年(1831)に、木屋徳右衛門から預かったという冊子があり、そこにおもしろい話が書かれています。村の若者がこれまでなかった...(2016年5月6日 文化財課)
夏祭りをしたい!
天保2年(1831)に、木屋徳右衛門から預かったという冊子があり、そこにおもしろい話が書かれています。村の若者がこれまでなかった夏祭りを始めたいと言っている。近ごろの若者はどうしようもないと、今でもよく聞くような話です。それでは、もう少しくわしくみていきましょう。
国分村の氏神は牛頭天王宮(国分神社)であるが、昔から夏祭りはなかった。ところが、近ごろ近隣の村々で新しく夏祭りを始めるところがでてきた。そこで、国分村でも若者が夏祭りを始めたいと言いだした。近ごろの若者は、ただ賑やかなことを好み、あとでどんなに大変なことになるかを考えもしない。
若者が夏祭りを始めたいと相談に来たが、老人たちは、「昔から国分村には夏祭りはなかった。新しいことを始めるならば、よくよく考えて始めなければならない。夏祭りなど必要ない。」と返事をしたが、若者はあきらめない。もし夏祭りを始めたら、年々派手になって費用がかかるようになる。また、9月の秋祭りよりもたくさんの見物客がやってきて、たいへんなことになる。これまで村が裕福だったときでも夏祭りなどやらなかった。今ごろになって始めれば、昔の人をだますことになり、神様にも失礼なことである。
古市村では、元文年間(1736~41)に夏祭りをするようになったが、年々費用がかかるようになり、延享4年(1747)には、祭りの30日も前から準備にかかり、9月の秋祭りよりも客が多く、10貫匁余りの費用がかかったということである。その上とても忙しく、良識のある人は眉をしかめているということである。
国分村は古市村より人口も多く、より多くの費用がかかることはあっても、少なくてすむことは考えられない。夏祭りなど無用の相談だ。神様をありがたいことだと常々思っていることだ。また、たいせつな相談をするときは、必ず老人を招いて意見を聞くことだ。何か新しいことを始めるときは、よくよく相談をして、できるだけ新しいことはしないほうがいい。ただし、村の利益になることならば、新しいことでも始めてもいいのだが。
老人が、自分達の楽しみのために夏祭りを始めたいという若者の言動に、困っている様子が目に浮かびます。
(文責:安村俊史)
「覚」
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河内国分寺はどこに? 河内国分寺(かわちこくぶんじ)があったので国分(こくぶ)という。それは昔から語り継がれて、江戸時代の人たちも知っていたようで...(2016年4月19日 文化財課)
河内国分寺はどこに?
河内国分寺(かわちこくぶんじ)があったので国分(こくぶ)という。それは昔から語り継がれて、江戸時代の人たちも知っていたようです。しかし、国分寺は早くに廃寺となっていて、江戸時代には国分寺がどこにあったのか、わからなくなっていました。
ところが、奉行所から国分寺の位置を明らかにするようにという指示があったようです。村人たちは、いろいろと調べたのですがわかりません。そのとき、ある人の考えが採用されることに決まったようです。それは地名から考えるというものでした。地名からかつての寺や城の位置を復元するという手法は今でもよく行われるものです。この方法は、まちがったものではありません。
人々が注目したのは、「東条(ひがんじょう)」「西条(にしんじょう)」「北条(きたんじょう)」「南代(みなみんだい)」という地名でした。これらの地名は、ある地点から見た方角を表しているのだろう。そしてその中心が国分寺のあった場所に違いないと考えたのです。その中心には「機ケ辻(はたがつじ)」という地名がありました。ここが国分寺の跡だということで、ここに小さなお堂を建て、地蔵さんをおまつりすることにしました。
その地は、東条の西はずれにあたり、絵図にも小さいお堂と大きな木が描かれ、「国分寺旧跡」と書かれているものがあります。この地には、現在も地蔵堂があり、地元の人たちによってお地蔵さんがまつられています。現在の国分東条町1丁目、ジェイテクト第二工場のすぐ西にあたります。
しかし、江戸時代の人たちの推測はまちがっていたようです。東条のさらに東で河内国分寺跡と考えられる寺跡が発見されました。大規模な塔跡は、国分寺の七重塔の跡と考えてまちがいないようです。柏原市教育委員会の発掘調査でも、金堂跡かと考えられる建物基壇を確認しています。現在塔跡基壇は復元されて見学できるようになっています。
ただ、「機ケ辻」の場所にいったい何があったのか。その疑問は今も残ったままです。
(文責:安村俊史)
国分村御通り筋絵図