文化・スポーツ
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くり返される洪水 今の大和川は、宝永元年(1704)に付け替えられた人工の川であることは、みなさんご存知のことと思います。付け替え前の大和川は、現...(2017年1月10日 文化財課)
くり返される洪水
今の大和川は、宝永元年(1704)に付け替えられた人工の川であることは、みなさんご存知のことと思います。付け替え前の大和川は、現在の柏原市役所の前から北北西に流れていました。その大和川が、たびたび洪水をおこしていたこともご存知だと思います。大和川の左岸にあたる柏原村(河内国志紀郡)も、たびたび洪水に襲われていました。
『柏原船由緒書』によると、柏原村を襲った二度の洪水から村を復興させるために柏原船を運航するようになった、とあります。その二度の洪水とは・・・。
元和6年(1620)5月20日に、大雨で柏原村の大和川堤防が切れ、運ばれてきた砂によって田畑が埋まってしまいました。さらに寛永10年(1633)8月10日には、長さ300間(540m)にわたって左岸堤防が切れ、同じ志紀郡の船橋村や国府村(藤井寺市)でも堤防が切れたようです。柏原村では45軒の家屋が流され、36人が死亡、牛馬6疋が死んだとあります。このころの柏原村は、現在の八尾市との市境付近、国道25号の西側付近にありましたが、被害が大きかったため、その南、洪水で運ばれてきた土砂が堆積してやや高くなった今の本郷の地に村を移しました。もと村があったところは耕地としましたが、その地は「古屋敷」と呼ばれました。この二度の洪水によって、柏原村は大きな打撃を受けてしまいました。この洪水から復興するために運航されたのが、柏原船だったのです。それでは、柏原船とはどんな船だったのでしょう。紹介していきたいと思います。
それにしても、柏原村は、大和川の洪水によって、これだけ大きな被害を受けていながら、大和川の付け替えには一貫して反対していました。洪水の心配よりも、村の土地を奪われることを心配したためでしょうか。
(文責:安村俊史)
参考文献 『柏原町史』1955年
図:今町絵図(右が北、濃い茶色が了意川、柏元家文書) -
大和川のつけかえ工事 堤防の発掘調査成果から、大和川のつけかえ工事の実態について考えてきました。つけかえ工事は、宝永元年(1704)の2月から10...(2016年11月7日 文化財課)
大和川のつけかえ工事
堤防の発掘調査成果から、大和川のつけかえ工事の実態について考えてきました。つけかえ工事は、宝永元年(1704)の2月から10月までの8か月、実質は7か月半で完工しています。信じられないようなスピード工事です。
工期を短縮できた理由は、大きくふたつ考えられます。ひとつは幕府と各藩が区間を分担し、同時に着工したことです。現在の工区割りという方法と同じです。これならば、各藩が競い合うことにもなり、工期の短縮が図れます。早く終われば経費も安くすみます。
もうひとつは、綿密な測量と設計によって、掘削土量と堤防の盛土量をほぼ一致させたことです。設計段啓での差は1割程度です。これによって無駄な掘削や残土の処分、搬入などを最小限におさえることができました。その結果、新大和川は基本的に川底を掘らず、両岸に堤防を築くことによって造られたのです。27年度の企画展のテーマでもあったのですが、当時の人の技術や計算力には驚くばかりです。
そして堤防断面の発掘調査は、工事を急いでいたようすを十分に物語ってくれました。もとの作物や耕作土はそのままで土を積み上げ、土はできるだけ近くの掘削土を利用したため、場所によっては砂ばかり積み上げるようなところもありました。また、土を叩き締めることもせずに積み上げて、最後だけ形を整えて芝を張って仕上げています。堤防の強度は二の次で、最後の形さえ整っていればそれでいいと工期を急いでいたことがよくわかります。
その後の堤防のかさ上げも、周辺の洪水に伴う土砂の処分地としての利用という面が大きかったようです。粗い砂が1メートル以上も積み上げられています。洪水土砂の処分と堤防のかさ上げという一石二鳥をねらったようです。
今後、堤防の調査を行なうことができれば、また新しい成果があがることでしょう。文献史料が限られているため、発掘調査に期待するところが大きくなります。それにしても、現在の大和川堤防は、大半がこんな弱い堤防でできています。「これでだいじょうぶなのかな」。素朴な疑問です。
(文責:安村俊史)
写真:大和川の風景
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それぞれの古墳 古墳一覧表 船氏王後墓誌 松岳山古墳群の変遷と玉手山古墳群 松岳山古墳群の造営集団 松岳山古墳群(まつお...(2016年10月25日 文化財課)
松岳山古墳群(まつおかやまこふんぐん)は、柏原市国分市場1丁目、大和川左岸の丘陵上に営まれた古墳時代前期の古墳群です。柏原市最大の前方後円墳・松岳山古墳を中心に、9基以上の古墳から成っています。
大きくは西から東へと古墳が造営され、松岳山古墳以外は直径10~20mの小規模な円墳・方墳だったようです。かつては墳丘まで確認できたようですが、 十分な調査もされないまま、松岳山古墳・茶臼塚古墳以外は昭和30年前後の宅地造成により消滅、過去の出土品も多くが散逸し、実態は明らかにされていません。
上空から見た松岳山古墳群(中央の森、北から)
松岳山古墳群の位置(赤は現存、黄は消滅)それぞれの古墳<古墳群一覧表>
松岳山古墳
松岳山古墳は松岳山古墳群の中心となる古墳です。墳丘長130mの前方後円墳で、美山(みやま)古墳とも呼ばれます。墳丘の構造や後円部墳頂にある石棺、その前後に立つ立石、楕円筒の埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、1kmほど西にある玉手山古墳群とともに、古くからたいへん注目を集めてきました。詳しくはこちら
向井山茶臼塚古墳
松岳山古墳の西に、直径が20m余りの円墳とされる古墳がありました。竪穴式石室の存在が推定され、埴輪も出土したようですが、詳細は不明です。
出土した銅鏡3面から、松岳山古墳よりも古くなると考えられます。銅鏡はいずれも重要文化財に指定され、所蔵は国分神社、現在は大阪市立美術館に寄託されています。詳しくはこちら市場茶臼塚古墳
向井山茶臼塚古墳より西にあったとされ、直径10メートル前後の円墳だったようです。この古墳は、出土品も埋葬施設の形態もまったく不明のままに、宅地造成によって向井山茶臼塚古墳とともに破壊されてしまいました。
茶臼塚古墳
茶臼塚古墳は、松岳山古墳の西側に接するように築かれた長方形墳です。埋葬施設は竪穴式石室で、豊富な副葬品が出土しています。詳しくはこちら
ヌク谷北塚古墳
松岳山古墳の東はヌク谷と呼ばれ、北塚・南塚など5基以上の古墳があったようです。中でも最も西にあったのがヌク谷北塚古墳です。詳しくはこちら
ヌク谷南塚古墳
ヌク谷北塚古墳のすぐ南にある直径11mの円墳です。西は松岳山古墳に接しています。墳丘は自然石で葺かれ、赤色顔料が付着した板石が多数出土し、竪穴式石室が存在したようです。円筒埴輪の破片も多数認められ、墳丘に樹立されていたと思われます。詳しくはこちら
ヌク谷東ノ大塚古墳
ヌク谷東ノ大塚古墳は、北塚古墳・南塚古墳のすぐ東にある直径約30mの円墳だったようです。1961年の宅地造成により破壊されました。出土品の歯車形碧玉製品は藤田美術館が所蔵し、重要文化財に指定されています。他に類例をみない碧玉製品です。詳しくはこちら
税所篤(さいしょあつし)と松岳山古墳群
明治2年(1869)から14年(1881)の間、柏原は大阪府ではなく、堺県に属していました。その県令税所篤は、無類の好古家で管内の遺跡を各所で発掘し、遺物を収集しています。大山古墳前方部の発掘は有名ですが、税所は松岳山古墳にも触手をのばしています。一時、税所が所有していたという船氏王後墓誌に関心があったため、その出土地とされる古墳の発掘を実施することにしたのでしょう。
明治10年(1877)10月、税所は沼田滝に命じて松岳山古墳の石棺を発掘、続いてヌク谷南塚古墳、東ノ大塚古墳も発掘しています。その際の出土品については、各古墳の項で紹介しています。出土品のうち刀剣類はもとに戻し、他の出土品は沼田が持ち帰ったといいます。この際の記録が出土品の図面とともに国分村の堅山家に残されているということを梅原末治氏が紹介しています。この記録は所在不明でしたが、平成23年9月に再発見されました。
(安村俊史「続・税所篤と松岳山古墳群-堅山家文書の再発見-」『館報』 第24号 2012)船氏王後墓誌
船氏王後首の経歴などを記録した銅製の墓誌です。江戸時代に松岳山古墳周辺から出土したという伝承がありますが、出土地点や、いつ発見されたのかは不明です。
現在は東京の財団法人三井文庫が所蔵し、国宝に指定されています。詳しくはこちら松岳山古墳群の変遷と玉手山古墳群
築造順
中国製の銅鏡3面が出土したという向井山茶臼塚古墳は、三角縁神獣鏡の構成を考えると、松岳山古墳に先行し、古墳時代前期前葉~中葉と考えられます。
茶臼塚古墳は、円筒埴輪の特徴などをみると松岳山古墳に先行する可能性も考えられるのですが、松岳山古墳の前方部前面に接するように築かれていることから、松岳山古墳よりも遅れて、おそらくほぼ同時に築かれたと考えられます。茶臼塚古墳は中期古墳にみられる陪塚の先駆的な形態と位置づけることができるかもしれません。
ヌク谷東ノ大塚古墳の年代は決めがたいですが、北塚古墳から出土した倭製の三角縁神獣鏡は新しいタイプのものであり、古墳時代前期後葉に下ると考えられます。
資料を総合的に考えると、松岳山古墳群は西から東へと順に築造されたと考えられ、盟主墳の松岳山古墳と付属する小古墳という評価はできません。小規模な古墳が西から東へ次々と築造されていくなかで、松岳山古墳のみが突出する規模をもって出現し、その後、また小規模な古墳が築造されたのでしょう。古墳群が造営されたのは、古墳時代前期前葉から後葉(3世紀末~4世紀後半)にかけてと思われます。
比較
松岳山古墳は前方後円墳で規模が突出するため、玉手山古墳群に含めて位置づける研究もみられます。しかし墳形や規模には違いがあり、やはり玉手山古墳群とは切り離して評価するべきでしょう。
松岳山古墳群 玉手山古墳群 墳形 松岳山古墳のみが前方後円墳
茶臼塚古墳が長方形の墳丘
それ以外は円墳か方墳ほぼ前方後円墳
西山古墳は円墳規模 松岳山古墳以外は小規模
(松岳山古墳は墳丘長130m、その他は10~30m)大規模
(1・3・7号墳が約110m、
その他は50~90m)板石積み 松岳山古墳・茶臼塚古墳・ヌク谷東ノ大塚古墳でみられる 玉手山1号墳の後円部墳頂以外みられない 埋葬施設 竪穴式石室が中心主体だが、ヌク谷北塚古墳のみが粘土槨
ヌク谷北塚古墳の粘土槨棺床下に礫敷きがあり、古墳群で唯一竪穴式石室の構造が確認されている茶臼塚古墳ではみられない
玉手山4号墳以外、竪穴式石室が中心主体
4号墳以外のすべての竪穴式石室の粘土棺床下に礫敷きがみられる
三角縁神獣鏡 5面以上の中国製・倭製の三角縁神獣鏡が出土、さらにその数は多かったよう 駒ヶ谷宮山古墳の倭製三角縁神獣鏡以外は出土せず
※駒ヶ谷宮山古墳は玉手山古墳群に含めない意見もある埴輪 共通要素 松岳山古墳の円筒埴輪の口縁や体部の形態、内外面をタテハケ後にナデで仕上げる技法などは、玉手山1号墳・7号墳に共通している 松岳山古墳では鰭付の楕円筒埴輪が出土
※ただし、松岳山古墳と茶臼塚古墳以外の埴輪について詳細不明鰭付の埴輪は出土せず
※1号墳の墳裾で楕円筒埴輪による埴輪棺が見つかっているこれらの状況から考えると、松岳山・玉手山古墳群それぞれの埴輪製作集団は、互いに情報交換や技術交流は行っていたものの、異なる集団であったと考えられます。
松岳山古墳群の造営は、玉手山古墳群に遅れて開始され、駒ヶ谷周辺の古墳を玉手山古墳群に含めないとすれば、玉手山古墳群の造営終了後もしばらく続けられたと推察されます。最大の松岳山古墳は玉手山7号墳とほぼ同時期で、若干松岳山古墳のほうが先行し、玉手山古墳群で100mクラスの前方後円墳が築造されていた時期に並行するようです。
松岳山古墳群の造営集団
本拠地
松岳山古墳群を営んだ集団はどのような集団だったのでしょうか。松岳山古墳群の周辺には古墳時代前期の集落はみられず、大規模な水田を営める平野部もないため、彼らはこの古墳群から離れた別の地に本拠地を置き、古墳のみをここに造営したと考えられます。現在のところ、本拠地は特定できていません。
大和川を利用した広い交流
松岳山古墳のある丘陵が大和川左岸の崖上にあり、各古墳が大和川に臨む尾根筋に並んでいることを考えると、被葬者集団と大和川の関係を考えずにはいられません。
松岳山古墳の石棺側壁や茶臼塚古墳の石室に、四国産の石材が使用されていることなどから、大和川水運を利用して四国にまで交流をもつような集団だったと推定されます。
さらに、松岳山・茶臼塚古墳の墳丘の板石積みは、高句麗などを系譜とする可能性があり、松岳山古墳出土の土師器も朝鮮半島に類例があります。遠く朝鮮半島とも交流があったと想定できます。
古墳の石材を管理
松岳山古墳群の各古墳には、大量の安山岩や玄武岩の板石が使用されています。竪穴式石室だけでなく、墳丘にまで使用された板石の量は膨大です。これらの石材は、東へ500mにある芝山で産出され、前期古墳の竪穴式石室用材として、玉手山古墳群はもちろん、箸墓古墳など大和の主要な古墳、西求女塚古墳(神戸市)の石室石材としても使用されている点が注目されます。
おそらく、これらの石材は大王家が管理し、誰もが使用できるものではなかったと思われます。松岳山古墳群の被葬者集団は、芝山で産出するこれら石材の管理や産出、運搬などにもあたっていたのではないでしょうか。
松岳山古墳群の位置どのような集団だったか
松岳山古墳群の各古墳が、松岳山古墳以外、小規模なものばかりでありながら、豊富な副葬品を保有していたのは、広域支配しているような首長ではなく、大王家にとって大和川水運と石材管理などを担う重要な職業集団だったからではないでしょうか。
そのなかで、松岳山古墳の被葬者は、何か個人的に活躍するような事情があって、130mもの前方後円墳を築けたと思われます。
松岳山古墳のあと、ヌク谷の各古墳が築造されたと考えられますが、もとの小規模な古墳に戻っています。そして間もなく、古墳の造営は終了します。最後の古墳と考えられるヌク谷北塚古墳の埋葬施設は、より簡素な粘土槨になっています。
このように評価すると、一部の研究者が指摘するような松岳山古墳群を造営した集団が成長して古市古墳群を造営したという説は成り立ちがたいと思われます。
特異な墳丘や船氏王後墓誌の出土によって著名な松岳山古墳ですが、出土品の散逸などで、これまで基礎的な研究がおろそかにされてきた面があります。これまでの資料をもとに、いま一度、松岳山古墳を適切に評価できれば、それは一地域の歴史に留まらず、わが国の古墳時代前期を語るうえで重要なものになるでしょう。
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土を積む 小山平塚遺跡の調査では、堤防の盛土に良質の粘土が使用されていました。しかし、船橋遺跡や長原遺跡では、砂質土が積み上げられていました。「川...(2016年10月25日 文化財課)
土を積む
小山平塚遺跡の調査では、堤防の盛土に良質の粘土が使用されていました。しかし、船橋遺跡や長原遺跡では、砂質土が積み上げられていました。「川違新川普請大積り」(コラム2)などから、堤防の盛土には工事に伴う掘削土が使用され、両者がほぼ一致するように計画されていたことがわかっています。盛土量のほうが多ければどこかからその土を持ち込まなければなりません。逆に掘削土のほうが多ければ、残土を処分しなければなりません。両者の土量がほぼ一致するという無駄のない効率的な工法であり、8か月という短期間で完工した大きな理由のひとつです。
一方で、このような工法であれば、掘削土が砂であっても砂をそのまま堤防に積み上げることになります。上町台地や瓜破台地を掘削した土は良質の粘土が中心となるでしょう。しかし、左岸堤防に沿って掘られた落堀川は、台地だけでなく氾濫原や旧河川をも横断して掘られていますので、当然さまざまな土砂が混ざることになります。
船橋遺跡周辺は、大和川・石川の氾濫原だったため、砂などが含まれているのは当然です。砂で築かれた堤防は、一度水が浸入すると一挙に崩壊する危険性を伴うため、堤防の盛土としては避けるべきものなのです。しかし、堤防を築く際に、そんなことは考慮されていなかったようです。決められた大きさの堤防を築けばそれでよかったのです。おそらく、左岸堤防は、場所によって堤防の強度がかなり異なっているのではないでしょうか。
また、4地点とも積み上げ途中で叩き締めが行われていないことがわかっています。右岸の2地点は、ほぼ水平に積み上げられていますが、左岸では適当に積み上げられています。本来ならば、積み上げ途中で叩き締めて堤防の教化を図るべきですが、一切なされていません。叩き締めると作業量が多くなり、盛土も余分に必要となります。叩き締めを行わず、できるだけ早く設計の大きさに完成させることが求められていたのでしょう。堤防の強度よりも工期の短縮のための工事だったことがよくわかりました。
(文責:安村俊史)
写真:2011年1月の藤井寺市大井の井手口南樋の撤去工事。つけかえ当時の堤防は確認できなかった。
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堤の形と大きさ 長原遺跡では、カマボコ状の堤防だったのではないかとされていますが、ほかの3箇所で確認された堤防は、いずれも美しい台形断面でした。長...(2016年10月17日 文化財課)
堤の形と大きさ
長原遺跡では、カマボコ状の堤防だったのではないかとされていますが、ほかの3箇所で確認された堤防は、いずれも美しい台形断面でした。長原遺跡の場合は、後世の改変が著しいため、本来は台形だったとも考えられます。あるいは、ほかの3箇所は幕府が直営で工事を実施した区間になりますが、長原遺跡はおそらく岸和田藩が担当した区間となるため、施行者によって若干の違いがあったのかもしれません。先に検討したように、長原遺跡では川床の掘り下げが行われていたと考えられ、掘り下げを行っている区間では、堤防の維持管理が雑になっていたことも考えられるかもしおれません。
次に堤防の大きさをみてみましょう。八尾南遺跡では、ほぼ設計どおりの堤防が確認されていますが、船橋遺跡、小山平塚遺跡では設計よりも高さで0.9m(20%)程度低いことがわかりました。積み上げられた土が圧縮されて若干高さが低くなっていると思われますが、当初からある程度低かったことは間違いないでしょう。もしかすると、左岸堤防は設計高(2.5間、4.5m)よりも低い2間(3.6m)で施工されたのではないでしょうか。もしそうだとすると、左岸堤防は右岸堤防よりも1間(1.8m)も低かったことになります。今後の左岸堤防での調査に注目したいと思います。
左岸の2箇所の調査地では、堤防基底部の幅(根置)も若干小さかったようです。これは小山平塚遺跡で発見された杭列によって、設計どおりに堤防幅を示す杭が打たれていたものの、盛土を積み上げた結果、幅が若干狭くなったのだと考えられます。杭はほぼ30cm間隔で打たれていることから、目印としての性格よりも、土留めとしての性格を考えたほうがいいようです。調査では杭だけが発見されていますが、杭と杭の間には割竹などを利用した土留めの工夫がされていたとも考えられます。ほかの調査地では、調査範囲の関係もあり、この杭列は確認されていません。杭列が大和川堤防全体に及ぶのか、小山平塚遺跡周辺だけの工法なのか、これも今後の調査で明らかにしていくことが必要でしょう。
(文責:安村俊史)
図:南堤と北堤
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長原遺跡の調査より 1994年、右岸にある笠守樋の撤去に伴って、大阪市平野区川辺でも調査が行われています。笠守樋は、新大和川によって水脈が断たれた...(2016年10月12日 文化財課)
長原遺跡の調査より
1994年、右岸にある笠守樋の撤去に伴って、大阪市平野区川辺でも調査が行われています。笠守樋は、新大和川によって水脈が断たれた旧東除川の流域に用水を引くために埋設された取水樋です。
つけかえ当時の堤防の規模は、北法面・南法面ともにのちに大きく改変されているため、明らかにできません。基底部幅(根置)は17m以上、高さは3m強と考えられ、上面(馬踏)は平らにならず、カマボコ状に丸くなっていたと推定されています。しかし、堤防上を人馬が往来していたことを考えれば、当初は平坦な馬踏があったのではないかと思います。それが、のちに荒らされたり、土が流れたりして不整形になったのではないかと考えられます。
高さが設計より2m以上低いのですが、その分は川床を掘り下げていたのではないかと考えられます。計画では、川辺より東では川床を掘らずに両岸に堤防を築くことになっており、川辺から西では川床を掘り下げて堤防を造らない計画になっています。調査地は、ちょうどその変換点にあたり、川床を2mほど掘り下げ、高さ3mの堤防を築いて合計5mの高さを確保したのだと思われます。八尾南遺跡よりも堤防基底部の高さが1m余り高いことからも考えても、川床の掘り下げが行われていたと考えるべきでしょう。
堤防の盛土は、ほとんどが砂で、粘土はみられません。盛土はほぼ水平になるように積み上げられており、八尾南遺跡での盛土の方法に似ています。周辺には東除川の洪水に伴う砂が広がっていたと考えられ、掘削土にこの砂が多く含まれ、それを堤防の盛土として利用したためでしょう。
ところで、長原遺跡では堤防に大きな穴がいくつも掘られていたことがわかっています。何のための穴かわからないのですが、堤防は各村が定期的に見廻り、崩れた箇所などがあればすぐに奉行所に報告され、補修されていました。よって、大きな穴が掘られるなどということは理解しがたいことです。報告では近世の穴かとされていますが、幕末か明治の規制が緩やかになって以降のものかもしれません。
(文責:安村俊史)
図:長原遺跡堤防断面
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小山平塚遺跡の調査より 1988年に藤井寺市小山の左岸堤防で、小山雨水ポンプ場建設に伴う発掘調査が実施されています。この調査は、大和川堤防の発掘調...(2016年9月29日 文化財課)
小山平塚遺跡の調査より
1988年に藤井寺市小山の左岸堤防で、小山雨水ポンプ場建設に伴う発掘調査が実施されています。この調査は、大和川堤防の発掘調査としては最初のもので、断面だけでなく一部では平面調査も実施されています。
堤防断面の観察によって、均整のとれた台形断面をなすつけかえ当時の堤防が確認されました。堤防の基底部幅(根置)が21.5m、上面幅(馬踏)が5.4m、高さ3.6mで、設計よりも基底部で2m、高さで0.9m小さいことがわかりました。
また、堤防基底部の両側に沿って、堤防に平行する木杭が列をなして打ち込まれていました。直径10~15cm、高さ2m前後の大きい杭です。堤防の南側の杭列と北側の杭列との間隔は23.4m、すなわち設計の根置き幅に一致しています。おそらく、設計に基づいて堤防幅を示す杭が打たれて盛土が行われたのですが、設計よりもやや小さい堤防ができあがってしまったのでしょう。高さも設計より低いことを考えると、完成後に盛土が圧縮されて小さくなっていることも考慮する必要があるかもしれません。
小山平塚遺跡の堤防は、良質の粘土を積み上げて築かれており、調査時には「鋼土(はがねつち)」を使用した強固な堤防であったと評価されました。そして、つけかえに伴う堤防は強固に造られていたとされました。しかし、その後のほかの地点での調査によって、これが普遍的なものではなかったことがわかりました。小山周辺は台地の先端付近にあたり、良質な粘土を地盤としています。落堀川の掘削によって掘り出された、この良質な粘土を堤防の盛土に使用しただけのようです。盛土が南から順に積み上げられていることからも、落堀川の掘削土を近いところから順に積み上げていったことがわかります。積み上げた土の上面が水平になっていないことから、築堤途中での叩き締めが行われておらず、堤防を強固にする意図がなかったことがわかります。
このほかに、堤防と15~20°の角度で下流方向にのびる杭列が3列確認されています。これは、堤防に当たる水の流れを弱くするための「杭出し水制」の痕跡と考えられます。近世の絵図にも、この付近に杭出し水制があったことがわかっています。堤防を守るための工夫のひとつです。
(文責:安村俊史)
写真:小山平塚遺跡堤防断面(藤井寺市教育委員会提供)
図:小山平塚遺跡堤防断面
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船橋遺跡の調査より 1997年に、藤井寺市北条町で左岸堤防を断ち割って断面調査が実施されています。これは、水はけの悪い北条地区の雨水を排水するため...(2016年9月19日 文化財課)
船橋遺跡の調査より
1997年に、藤井寺市北条町で左岸堤防を断ち割って断面調査が実施されています。これは、水はけの悪い北条地区の雨水を排水するために、雨水ポンプ場を設置する工事に伴う調査でした。北条地区は、新大和川が造られてから、左岸堤防があるために雨水がうまく排水されず、滞水することが多くなっていたのです。新大和川建設に伴う迷惑が今でも続いているのです。左岸での洪水の増加は、つけかえ反対嘆願書にも反対理由としてとりあげられていました。
調査の結果、つけかえ当時の堤防が、美しい台形に造られていることが確認されました。つけかえ当時の堤防は、基底部幅(根置)が約19m、上面の幅(馬踏)が約5m、高さが約3.6mでした。設計では根置13間(23.5m)、馬踏3間(5.4m)、高2.5間(4.5m)となっていますので、根置で4.5m、馬踏はほとんどかわりませんが、高さは0.9m低いことがわかります。長年の土圧などでつけかえ当時よりも堤防が若干小さくなっていると考えられますが、当初から設計よりもやや小さく造られていたのではないかと考えられます。
積み上げられた土は砂質土が多く、南側から順に、小さな山を築くことを繰り返すように積み上げられています。南側が高くなっている理由は、左岸堤防に沿って設けられた落堀川の掘削に伴う土砂を積み上げたためと考えられます。その後、堤防は3回にわたって拡張されています。まず、北側(川側)へ拡張し、高さも1m高くしています。これは、宝永5年(1708)に落堀川の川底を掘り下げて、その土で大和川の堤防をかさ上げしたという記録に対応するのでしょう。
その後、再び北側へ1m、高さも1.4mほど拡張されています。これは、享保元年(1716)に付近一帯を襲った洪水で運ばれてきた土砂を大和川の堤防に積み上げたという記録に対応するものと考えられます。この2回の拡張は、いずれも粒子の粗い砂を積み上げており、洪水によって運ばれてきた砂を積み上げたものと考えて間違いないでしょう。土砂の搬出と堤防のかさ上げという一石二鳥の方法ですが、砂を積み上げた堤防は、強度の弱いものとなり、あまり好ましいものではありません。
(文責:安村俊史)
写真:船橋遺跡堤防断面(藤井寺市教育委員会提供)図:船橋遺跡堤防断面
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「川違新川普請大積り」 大和川のつけかえ運動を中心になって進めた中甚兵衛の残した史料が、中甚兵衛十代目の中九兵衛氏より当館に寄贈され、現在は当館...(2016年9月13日 文化財課)
「川違新川普請大積り」
大和川のつけかえ運動を中心になって進めた中甚兵衛の残した史料が、中甚兵衛十代目の中九兵衛氏より当館に寄贈され、現在は当館で所蔵しています。その中に「川違新川普請大積り(かわたがえしんかわふしんおおつもり)」と「大和川新川之大積り」があります。これは、大和川つけかえ工事の設計書です。「川違新川普請大積り」には、工事区間とその間の河床の掘削土量や堤防の盛土量などが記されています。そのために必要な人足の数や費用も積算していますので、今の見積書を兼ねたものとなっています。綿密な計算に基づく設計書に、当時の技術や知識の高さを感じます。
設計では、新大和川の長さが7.980間(約14.5km)、敷地380町8反(約380ha)、掘削土量221,250坪(約130万㎥)、堤盛土量201,320坪(約119万㎥)、人足2,445,655人、費用は銀3,668貫482匁5分(金換算で約61,000両)となっています。実際の工事は、変更された部分もあり、金71,500両を要しています。設計段階よりも工事費はふくらんでいます。
ここには、堤防の大きさが北堤(右岸堤防)で根置15間(27.2m)、馬踏3間(5.4m)、高さ3間(5.4m)、南堤(左岸堤防)では根置13間(23.5m)、馬踏3間(5.4m)、高さ2.5間(4.5m)となっています。根置(ねおき)とは堤防の基底部のこと、馬踏(ばふみ)とは堤防の上面のことです。
右岸堤防のほうが大きくなっている理由は、この付近では北に向かって地形が緩やかに下がっており、北側の右岸堤防への水当たりが強くなるためと考えられます。それとともに、もし右岸堤防が切れたり、水が堤防を越えたりすると、河内平野が淀川まで一面水につかってしまい、大坂市中でも大きな被害がでると考えられます。左岸堤防が切れても、左岸に沿った数百mの土地に水が滞るだけで、被害を小さくすることができます。左岸に暮らす人々にとっては迷惑な話ですが、被害の軽減と大坂市中を守るという考えが幕府にあったのは間違いないと思います。
それでは、この設計どおりに工事が行われたのでしょうか。実際の発掘調査成果をみていきたいと思います。
※1間(けん)は6尺(しゃく)、約1.8mです。1坪(つぼ)は1間×1間×1間で、約5.9㎥です。
(文責:安村俊史)
写真 「川違新川普請大積り」 -
八尾南遺跡の調査より 2006年、八尾市若林町で大和川から取水するための三箇用水樋の撤去に伴って、右岸堤防の調査が実施されました。やはりつけかえ当...(2016年8月28日 文化財課)
八尾南遺跡の調査より
2006年、八尾市若林町で大和川から取水するための三箇用水樋の撤去に伴って、右岸堤防の調査が実施されました。やはりつけかえ当時の堤防が確認され、基底部幅(根置)26m、上面幅(馬踏)5.4m、高さ5.4mの規模であることがわかりました。基底部幅が設計よりも1.2mほど短いことを除けば、上面幅・高さともに設計どおりの規模です。
盛土のほとんどが粘土であり、よく見ると粘土は20cm×12~18cmのブロック状のかたまりで積み上げられていることがわかりました。これは鋤(すき、今のスコップ)を踏みこんで粘土を切り出したときの1回の単位だと考えられます。どこかで規則正しく粘土を掘り下げて、これを堤防の盛土に使用していたと推定されます。おそらく、このブロック状のかたまりをモッコにいくつか入れて運んだのでしょう。ブロックの角が丸みをおびているのは、そのためだと考えられます。
なお堤防盛土の下寄りには耕作土や洪水に伴うと考えられる砂が多くみられ、上方には灰色の締まった粘土が多くみられます。これは、調査地周辺の瓜破台地の掘り下げに伴って、当初は台地表面の耕作土や洪水砂などが積み上げられ、徐々に台地を構成する粘土を掘削して、その土を積み上げていったためと考えられます。盛土は北側がやや高いものの、ほぼ水平に積み上げられており、藤井寺市の2箇所の調査とは積み上げ方が異なっているようですが、その理由はよくわかりません。堤防を強くするために、できるだけ水平に積み上げようとしていたのかもしれません。
つけかえ当時の堤防直下には、真っ黒の耕作土がみられます。水田の土でしょうか。北寄りには島畑かと思える盛り上がりもみられます。島畑とは、洪水などに伴う砂などを一箇所に高く積み上げ、その上を畑として利用し、低いところを水田として利用する方法で、河内平野で広くみられました。島畑では、綿の栽培が盛んでした。堤防を造るときに、耕作土を取り除いたり整地することなく盛土の積み上げが行われていたことがわかります。耕作土が厚いことから考えると、稲や綿が植わったままだったかもしれません。
(文責:安村俊史)
図:八尾南遺跡堤防断面