文化・スポーツ
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洪水との戦い 田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受け...(2016年6月6日 文化財課)
洪水との戦い
田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受けないようにしました。さらに、この堤の外側(川側)に、もう1本の堤を築いて二重堤とし、強固なものにしていました。2本の堤の間には、畑も開かれました。
この川側の堤は、その裾に杭を打って堤が崩れないようにするとともに、川の流れに対して鈍角になるように多数の杭を打っていました。これを「杭出し水制」といい、堤を守るために水の流れを緩やかにしたり、流れる方向を変えたりするものでした。このように、杭などによって堤を守る施設を水制といいます。
ところが、寛政4年(1792)の出水によって川側の堤が2箇所で破損し、それ以降、堤の復旧と維持にかなり苦労したことが史料によってわかります。寛政7年(1795)に堤奉行に提出された絵図が、三枚一組で残っています。堤が被害を受ける前の安永10年(1781)、破損した直後の寛政4年、治水工事後の寛政7年の3枚です。寛政4年の堤破損後、菱牛(菱枠)を設置し、川の中央を掘り下げて水の流れを変えています。菱牛とは、丸太を四角錐状に組み上げたもので、これを川の中に置いて水の流れを変えました。牛は水制の一つとして関東などでよく見られる方法ですが、大和川でも使用されていたことが、この一連の絵図で確認できました。この菱牛を7組2列に置いて、堤を守ろうとしたようです。
ところが、この対策はあまり効果がなかったようです。寛政7年の絵図では、菱牛を迂回して水の流れがもとに戻り、堤が完全に破壊されたことがわかります。水は本堤である柳原堤に迫っています。柳原堤が決壊すると、再び大きな被害が生じることになります。そこで、何とか修理してほしいと願いでたものです。
その結果、治水工事が行われたことが寛政8年の絵図によってわかります。この絵図によると、菱牛は41基に増え、多数の杭を打って治水工事を実施したようです。しかし、堤を復旧することはあきらめたようです。
これらの絵図によって、寛政4年の出水による被害の状況と、その前後の治水対策のようすがわかります。ほかでは見られない菱牛の設置など、国分村の人々がこの地の堤、そして水田を守るために、とても苦労をし、膨大な費用を費やしていたことがわかります。くわしくは、当館の館報27号で紹介していますので、ご参照ください。
(文責:安村俊史)


寛政4年、7年の絵図
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新町と国分船 田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤など...(2016年5月30日 文化財課)
新町と国分船
田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤などと呼ばれました。それまでも堤はあったのですが、大きなものではなかったようです。そして、堤の南側には水はけの悪い水田が広がっていました。奈良街道は、この堤の上を通っていましたが、広い道幅がとれず、洪水で道が崩れることもあったと考えられます。しっかりした堤を築いたことによって、堤の南側を埋め立て、そこに奈良街道を移して街道の両側に建物を建築しました。それまでの村は東の台地上に広がっていましたが、これによって村は西へと長くのび、この地は新町と呼ばれるようになりました。新町は、街道に面する町場として、さまざまな商売を営む人たちが住みつき、その後の国分村の発展に大きな役割を果たすことになりました。
新町を開くとともに、国分船の運航も開始されました。国分船は、寛永16年(1639)に28艘で始められ、正保元年(1644)に35艘に増えました。大和川を大坂の京橋まで、上流は亀の瀬まで、また石川を遡って富田林まで運行していました。大坂からは干鰯などの肥料などを運び、大坂へは綿などを運びました。
国分船は、旧大和川を運行する剣先船仲間に属し、古くからの古剣先船221艘に含まれます。剣先船は、舳先が剣のように尖った平底の川船でした。長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m)で、十六駄(2160kg)積みでした。普通は6尺で1間ですが、ここでは5尺で1間と数えます。宝永元年(1704)の大和川付け替え後は、大坂から南へ下る十三間川を通って大和川河口に入り、明治まで営業を続けていました。
国分船の船着場は、現在の国豊橋のすぐ上流に設けられました。大和川上流の亀の瀬には魚梁荷場(やなにば)という船着場があり、ここで荷揚げされた荷物は、陸路で峠を越えて大和に入り、再び船に積み込まれて大和各地へ送られました。魚梁荷場には龍王社(浜神)という祠があり、寛政3年(1791)に剣先船仲間が奉納した石灯籠が残っています。
田輪樋・風戸堤の築造、国分船の運航などは、国分村の有力者によるものですが、ときの領主の稲垣重綱の理解や支援も大きかったようです。東条墓地に「小禹廟」と呼ばれる石塔があります。宝暦3年(1753)5月に、稲垣重綱の百年忌に際して国分村の船持仲間が建立した石塔です。国分村の人々は、この石塔を「小禹廟」と呼び、稲垣重綱の功績を治水事業によって中国の夏王朝を創始したといわれる禹になぞらえて称えました。
(文責:安村俊史)
龍王社の石灯籠
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田輪樋 国分村の北を流れる大和川は、芝山を迂回して大きく北へ湾曲しています。当然ながら、芝山の南側の堤防への水当たりが強くなり、芝山の南側は古くか...(2016年5月23日 文化財課)
田輪樋
国分村の北を流れる大和川は、芝山を迂回して大きく北へ湾曲しています。当然ながら、芝山の南側の堤防への水当たりが強くなり、芝山の南側は古くから洪水の被害を何度も受けてきました。この地には何度も水田が開かれたようですが、すぐ水につかり、一度たまった水はなかなか引きませんでした。この排水不良を改善するために芝山の西に掘削されたのが田輪樋です。地元では、「たのわのひ」あるいは「たのひ」と呼ばれています。
領主であった稲垣摂津守重綱の協力を得て、国分村の東野伊右衛門が寛永年間(1624~44)に工事に着手し、正保元年(1644)に完成したようです。芝山の周辺は、玄武岩や安山岩という堅い火山岩でできています。これを芝山火山岩といいますが、この堅い岩盤を掘り進めてトンネルを掘るのですから、それはたいへんな工事だったでしょう。「金山堀」という記録があることから、鉱山を掘削する技術者や労働者を雇って掘り進めたようです。
樋の長さは123間(224m)で、内法は5尺(150cm)四方でした。樋の内側は四面とも板張りでした。板一枚の長さは5尺(150cm)、幅は1尺5寸(45cm)、厚さが4寸(12cm)の杉板でした。この板を横長に並べ、板と板はかすがいで打ち付けられていました。板の内側の寸法は4尺2寸(127cm)四方になります。岩盤なので板は必要ないようにも思うのですが、節理面で崩落しやすい玄武岩の性質による措置だったのでしょう。
樋の入口部分には、水量を調節する戸関が二箇所に設けられていました。一箇所は南からの悪水(排水)を抜くもので、本来の目的のものです。もう一箇所は田へ水を送る用水の余った水を流すためのものでした。樋の出口は大和川に開いています。そして、出口から水が逆流するのを防ぐため、川の左岸と平行に長さ135間(245m)もの堤が築かれていました。
この樋が設置されたことにより、400石余りの水田が上田に回復するとともに、37石の新田を開くことができました。この樋の設置に尽力した東野伊右衛門は、新田のうち2石4斗5升の高の土地を永代にわたって年貢のかからない除地とすることが認められていました。江戸時代の樋は昭和25年(1950)のジェーン台風で壊れ、その西側に新しく築かれた樋が現在も使用されています。
(文責:安村俊史)



「田輪樋御普請所絵図」
本企画展のポスターや図録の表紙に使っている絵図です。紙をめくっていくと、樋の内部が見えるように工夫されています。 -
祭りで暴れる若者 国分村の人が、町奉行に申し出た一通の嘆願書があります。差出人は、定四郎が幼少のため代理として周助という人物によるものとなっていま...(2016年5月16日 文化財課)
祭りで暴れる若者
国分村の人が、町奉行に申し出た一通の嘆願書があります。差出人は、定四郎が幼少のため代理として周助という人物によるものとなっています。そこには次のようなことが書かれています。
文政4年(1821)の6月12日、氏神(国分神社)の神事があり、村の人たちはみんな休みでした。そのとき、国分村新町の若者たちが大勢集まって、だんじりを出してきました。そして、十人ばかりの若者が、定四郎の家へ庭の木がじゃまになるので切ってくれと言って来ました。しかし、以前からある木なので切られるのは困ると村の月番庄屋へ切らないように言ってくれとよくよく頼んだのですが、庄屋の代理である年寄兵右衛門は十分に対応してくれませんでした。そのあと、若者たちは家へやってきて、木を切るだけでなく屋根瓦なども壊して家の中にも入ってきそうな勢いでした。家には幼い者と女しかいないので、抗議をすることもできずにこわい思いをしていました。
もう一度兵右衛門に相談に行ったところ、不在で対応してもらえませんでした。家の者は怖くてみんな逃げだしてしまい、いったいどうすればいいのだと思い悩んでいました。
すると、その夜中に何者かが石や瓦を持って、家の門を打ち壊しに来たようです。夜中だったので、みんな逃げてしまって誰のしわざかわかりませんでした。しかし盗賊のしわざとは考えられません。村の乱暴者のしわざだと思われますが、抗議できる者もおらず、ほんとうに嘆かわしいことだと思っております。恐れおおいことではありますが、御奉行様に申し上げさせていだきます。もっとも、だれのしわざかを探してほしいとは思っておりません。お耳に入れておいていただければ、それで結構です。
村の若者の乱暴に困っている様子がよくわかる嘆願書です。この嘆願書が実際に提出されたのかどうかはわかりません。
(文責:安村俊史)
「乍恐以書附奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)」
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柏原市では、柏原市立歴史資料館及び史跡高井田横穴公園の円滑な運営と効率的な活用を図り、郷土の文化的遺産を広く公共の利用に供し、市民の教育文化の向上に資す...(2016年5月11日 文化財課)
柏原市では、柏原市立歴史資料館及び史跡高井田横穴公園の円滑な運営と効率的な活用を図り、郷土の文化的遺産を広く公共の利用に供し、市民の教育文化の向上に資するため歴史資料館に柏原市立歴史資料館等運営協議会を設置しています。今年度の運営協議会会議は、下記の日程で開催されることになりました。
会議は、市民(市内在住・在勤・在学の方)も傍聴することができます。傍聴希望者は、歴史資料館までご連絡ください。
日時 平成28年5月18日(水) 午後2時~4時
場所 柏原市立歴史資料館研修室 柏原市高井田1598-1(電話:072-976-3430)
案件 1.会長。副会長の選出 2.平成27年度事業報告 3.平成28年度事業計画 4.その他
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夏祭りをしたい! 天保2年(1831)に、木屋徳右衛門から預かったという冊子があり、そこにおもしろい話が書かれています。村の若者がこれまでなかった...(2016年5月6日 文化財課)
夏祭りをしたい!
天保2年(1831)に、木屋徳右衛門から預かったという冊子があり、そこにおもしろい話が書かれています。村の若者がこれまでなかった夏祭りを始めたいと言っている。近ごろの若者はどうしようもないと、今でもよく聞くような話です。それでは、もう少しくわしくみていきましょう。
国分村の氏神は牛頭天王宮(国分神社)であるが、昔から夏祭りはなかった。ところが、近ごろ近隣の村々で新しく夏祭りを始めるところがでてきた。そこで、国分村でも若者が夏祭りを始めたいと言いだした。近ごろの若者は、ただ賑やかなことを好み、あとでどんなに大変なことになるかを考えもしない。
若者が夏祭りを始めたいと相談に来たが、老人たちは、「昔から国分村には夏祭りはなかった。新しいことを始めるならば、よくよく考えて始めなければならない。夏祭りなど必要ない。」と返事をしたが、若者はあきらめない。もし夏祭りを始めたら、年々派手になって費用がかかるようになる。また、9月の秋祭りよりもたくさんの見物客がやってきて、たいへんなことになる。これまで村が裕福だったときでも夏祭りなどやらなかった。今ごろになって始めれば、昔の人をだますことになり、神様にも失礼なことである。
古市村では、元文年間(1736~41)に夏祭りをするようになったが、年々費用がかかるようになり、延享4年(1747)には、祭りの30日も前から準備にかかり、9月の秋祭りよりも客が多く、10貫匁余りの費用がかかったということである。その上とても忙しく、良識のある人は眉をしかめているということである。
国分村は古市村より人口も多く、より多くの費用がかかることはあっても、少なくてすむことは考えられない。夏祭りなど無用の相談だ。神様をありがたいことだと常々思っていることだ。また、たいせつな相談をするときは、必ず老人を招いて意見を聞くことだ。何か新しいことを始めるときは、よくよく相談をして、できるだけ新しいことはしないほうがいい。ただし、村の利益になることならば、新しいことでも始めてもいいのだが。
老人が、自分達の楽しみのために夏祭りを始めたいという若者の言動に、困っている様子が目に浮かびます。
(文責:安村俊史)
「覚」
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河内国分寺はどこに? 河内国分寺(かわちこくぶんじ)があったので国分(こくぶ)という。それは昔から語り継がれて、江戸時代の人たちも知っていたようで...(2016年4月19日 文化財課)
河内国分寺はどこに?
河内国分寺(かわちこくぶんじ)があったので国分(こくぶ)という。それは昔から語り継がれて、江戸時代の人たちも知っていたようです。しかし、国分寺は早くに廃寺となっていて、江戸時代には国分寺がどこにあったのか、わからなくなっていました。
ところが、奉行所から国分寺の位置を明らかにするようにという指示があったようです。村人たちは、いろいろと調べたのですがわかりません。そのとき、ある人の考えが採用されることに決まったようです。それは地名から考えるというものでした。地名からかつての寺や城の位置を復元するという手法は今でもよく行われるものです。この方法は、まちがったものではありません。
人々が注目したのは、「東条(ひがんじょう)」「西条(にしんじょう)」「北条(きたんじょう)」「南代(みなみんだい)」という地名でした。これらの地名は、ある地点から見た方角を表しているのだろう。そしてその中心が国分寺のあった場所に違いないと考えたのです。その中心には「機ケ辻(はたがつじ)」という地名がありました。ここが国分寺の跡だということで、ここに小さなお堂を建て、地蔵さんをおまつりすることにしました。
その地は、東条の西はずれにあたり、絵図にも小さいお堂と大きな木が描かれ、「国分寺旧跡」と書かれているものがあります。この地には、現在も地蔵堂があり、地元の人たちによってお地蔵さんがまつられています。現在の国分東条町1丁目、ジェイテクト第二工場のすぐ西にあたります。
しかし、江戸時代の人たちの推測はまちがっていたようです。東条のさらに東で河内国分寺跡と考えられる寺跡が発見されました。大規模な塔跡は、国分寺の七重塔の跡と考えてまちがいないようです。柏原市教育委員会の発掘調査でも、金堂跡かと考えられる建物基壇を確認しています。現在塔跡基壇は復元されて見学できるようになっています。
ただ、「機ケ辻」の場所にいったい何があったのか。その疑問は今も残ったままです。
(文責:安村俊史)

国分村御通り筋絵図
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国分村の人口など 国分村を治めていた領主は、江戸時代のはじめには幕府領と大坂城代や京都所司代の支配を繰り返していました。たとえば、寛永8年(163...(2016年4月11日 文化財課)
国分村の人口など
国分村を治めていた領主は、江戸時代のはじめには幕府領と大坂城代や京都所司代の支配を繰り返していました。たとえば、寛永8年(1631)から慶安4年(1651)までは大坂城代稲垣重綱の支配でした。そのほかに、京都所司代の牧野親成や永井尚庸らの支配と幕府領とを繰り返していました。その後、享保15年(1730)以降は、幕末に至るまで一貫して幕府領となっていました。また、17世紀代は村高のうち100石が旗本の福富領となっていました。
江戸時代の村では、検地によって米の生産高が決められており、これを石高(こくだか)、村の石高を村高といいました。なので、実際の米の収穫量と必ずしも一致するものではありません。この村高に基づいて、年貢や諸役が課せられました。そして、それをとりまとめる庄屋、年寄(としより)などの村役人がおかれていました。国分村には3人の庄屋がいて、村を分割して管理していたことがわかっています。
国分村の村高は、江戸時代のはじめで1250石余り、享保15年(1730)には1285石余り、元文2年(1737)には1328石余り、宝暦9年(1759)には1475石余り、明治元年(1868)には1478石余りとなっていました。新田開発などで、少しずつ村高が増えていました。近隣で大きな村だった柏原村でも1200石足らずなので、国分村がいかに大きな村だったかがわかります。
それでは、国分村にはどれくらいの家があり、何人の人が暮らしていたのでしょうか。享保15年(1730)の『国分村明細記』という村の記録によると、家数は716軒で人口は3,108人とあります。人口の内訳は男1.406人、女1,684人、僧18人となっています。女性のほうが2割ほど多かったことがわかります。また、僧は男女の数に含まれていません。そのほかに、馬が60疋、水車が3両あったことなどがわかります。
明治2年(1869)の『明細書上帳』では、家数が550軒、人口2,447人となっています。江戸時代の後半のあいだに、家数も人口も2割以上減っていたことがわかりますが、その原因についてはわかりません。これから探っていきたいと思っています。また、牛5疋とありますが、馬の記録がありません。馬はいなくなっていたのでしょうか。やはり柏原村の人口は1,400人前後なので、国分村の人口がいかに多かったかがわかります。
(文責:安村俊史)
宗門人別御改帳
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国分村の交通 国分村の中心部を東西に奈良街道が通っていました。江戸時代になると、この奈良街道に沿って、村は東西にのびていきました。奈良街道は大和街...(2016年4月4日 文化財課)
国分村の交通
国分村の中心部を東西に奈良街道が通っていました。江戸時代になると、この奈良街道に沿って、村は東西にのびていきました。奈良街道は大和街道とも呼ばれましたが、絵図を見ると、大坂方面を大坂海道、大和方面を南都海道と表記するものが多いようです。大坂方面へは、舟渡しで大県郡高井田村へ渡り、そこから大和川右岸堤防を進みました。大和方面へは、村の東はずれの夏目の渡しで大和川右岸の青谷村川端へ渡り、そこから大和川右岸に沿って進み、竜田越(亀の瀬越)で大和に入りました。現在の国道25号の前身となる道ですが、現在のように大和川左岸を通って奈良県へと入るルートは、明治になって開かれたものです。
村からは、それ以外にも何本もの街道がのびていました。村から西へは長尾街道がのびていました。原川にかかる板橋を渡って片山村を経て石川を渡る街道です。長尾街道は、国分から田辺を通って大和の田尻村へと続いていました。田尻越えとも呼ばれる道です。この街道は、現在の国道165号の前身道路です。この道と分岐して田辺から原川を渡って南西へと向かう道は、駒ヶ谷村へと続いています。五十村越えと呼ばれる道です。古代には、羽曳野市の駒ヶ谷、飛鳥周辺も安宿郡でした。むしろ安宿郡の中心は、飛鳥周辺にあったと考えられます。この道も古代にさかのぼる道だと考えられます。
国分から六軒を通って尾根を越えると関屋へ至ります。この道は関屋越えと呼ばれました。絵図には初瀬街道とあり、長谷寺などへの道でもありました。少し起伏のある道ですが、江戸時代にはよく利用されたようです。
奈良街道を青谷へ渡らずにそのまま東へ向かうと、明神山の稜線に向かっての登りとなります。この道は送迎(ひるめ)越えと呼ばれ、蛭目越えとも見えます。そのまま行くと畠田村へ至りますが、途中で北へ下ると藤井村への道となります。聖徳太子を送り迎えしたために送迎越えと呼ばれるようになったという伝承があります。大坂冬の陣のときに徳川家康が通ったという記録もあります。江戸時代には、おかげ参りなどでよく利用される道でした。
国分船による水運も重要な交通ですが、これは改めて紹介することにしましょう。
(文責:安村俊史)

国分村絵図
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国分村の位置 平成28年3月26日からの春季企画展では、江戸時代の国分村を紹介します。これまで、あまり知られていなかった国分村の江戸時代を中心とす...(2016年3月27日 文化財課)
国分村の位置
平成28年3月26日からの春季企画展では、江戸時代の国分村を紹介します。これまで、あまり知られていなかった国分村の江戸時代を中心とする古文書、約1万点の整理を終えたことに伴って、その成果を皆さんに紹介したいと思います。まずは、国分村のあらましを述べていきます。
江戸時代の国分村は、現在の柏原市の南東部、大和川の左岸にありました。村の名は、古代に河内国分寺があったことに由来します。江戸時代には、河内国安宿部郡国分村(かわちのくにあすかべぐんこくぶむら)といいました。
江戸時代の安宿部郡は、柏原市域の大和川より南、石川から東にあたります。その中で、国分村の範囲は、北は大和川、東は大和との国境、西・南は原川までで、南西部では一部原川を越えて玉手山丘陵の東斜面へものびていました。北は大和川をはさんで大県郡高井田村、青谷村があり、二つの村とのあいだには、小舟による渡しがありました。西は同じ安宿部郡内で、北から片山村、玉手村、円明村と接していました。東と南は、険しい明神山系の稜線を越えて、大和国の藤井村、畠田村、関屋村、田尻村などと接していました。
国分村の中心は、現在の国分本町、国分市場にあり、そこから離れて東条(ひがんじょう)、六軒(ろっけん)、田辺があり、これらを含めて国分村でした。村の中心部は奈良街道に沿って東西にのび、村の西側は新町と呼ばれました。東条は、国分村の南東部、現在の国分東条町で、明神山系の山裾に位置します。六軒は、大和の関屋へ越える関屋越えに沿う高台にあたり、国分本町7丁目の阿弥陀寺周辺です。田辺は、現在の田辺、春日神社の西にありました。
標高273.7mの明神山から南西へのびる明神山系が村の南東部を画し、大和国との国境となっています。明神山系の北斜面は断層によって急斜面となっています。国分村の中心部は台地上にあり、この台地から北東へ、松岳山古墳のある細い尾根を経て標高112mの芝山に至ります。大和川は芝山を大きく迂回して北へ湾曲しています。田辺周辺も台地で、国分村の中心部がある台地とのあいだには、田辺池から北西へのびる谷地形がみられます。台地の東西には湿地が広がっていて、水田として利用されていましたが、東は大和川、西は原川の氾濫によって、しばしば被害を被った地でもありました。
(文責:安村俊史)

国分村の位置