文化・スポーツ
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寺田家と柏原船 寺田家も今町にあり、柏原船の営業に参加していました。建物は奈良街道の東側にあり、主屋、離れ、内蔵、土蔵、米蔵、南門、東門の7棟の建...(2017年3月14日 文化財課)
寺田家と柏原船
寺田家も今町にあり、柏原船の営業に参加していました。建物は奈良街道の東側にあり、主屋、離れ、内蔵、土蔵、米蔵、南門、東門の7棟の建物が国の登録文化財になっています。内蔵の外板には、柏原船の船板が使用されています。
寺田家は「北条屋」の屋号で肥料商などの商売を営んでいました。河内国志紀郡北条村(現在の藤井寺市北條町)から17世紀中ごろに移り住んだようですが、くわしいことはわかっていません。
正徳6年(1716)に2艘の船株を持つようになって柏原船の営業に参加することになったようです。その後、寛政元年(1789)には9艘、弘化元年(1844)以降明治まで14艘の船持であったことがわかっています。船株は激しく売買されましたが、北条屋は手に入れた船株をすべて明治まで所有していたようです。大文字屋の三田家とともに、平野の船会所の運営にもあたり、末吉家と寺田・三田家が盛んに交流していたことがわかる文書もあり、三田家とともに安定した船持だったことがわかります。
寺田家は代々七郎兵衛を名乗り、大和川付け替え後に開かれた市村新田の経営にも初めから関わっていました。市村新田には当番制の庄屋がおかれましたが、寺田家も庄屋を勤め、のちには寺田家のみが庄屋を勤めるようになりました。
柏原船に関する史料も多数所蔵されており、元禄9年(1696)の『柏原船舟数水帳』には、元禄9年以降明治までの柏原船70艘すべての船持が記載されています。船持に変更があると、その上に附箋を貼って変更しているため、船持の変遷を知る貴重な史料となっています。それ以外にも、柏原船に関するさまざまな取り決めを記した『定』(天和3年・1683)や、経営状況を知ることができる『勘定目録』『船床差引覚』などがあります。寺田家文書はかなり整理が進んでおり、『寺田家文書目録I』を刊行していますが、まだ調査は終わっておりません。
(文責:安村俊史)
図:寺田家(柏原市今町、国登録文化財) -
柏原船のすがた 水深が浅く、幅の狭い川を運行するため、船は平底で小さいものでなければなりませんでした。大和川を運航していた剣先船は、舳先が剣のよう...(2017年2月22日 文化財課)
柏原船のすがた
水深が浅く、幅の狭い川を運行するため、船は平底で小さいものでなければなりませんでした。大和川を運航していた剣先船は、舳先が剣のように尖っていたので「剣先船」と呼ばれたのですが、柏原船はよく似た形態で、長さの短いものでした。
記録によると、長さが7間4尺5寸。普通は6尺で1間となるのですが、ここでは5尺で1間と数えるため、39尺5寸、約12mとなります。幅は7尺(2.1m)、深さ1尺4寸(42cm)、底板の幅は5尺8寸5分(1.8m)の大きさでした。
剣先船は長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m)、大和の大和川を運航していた魚梁船(やなぶね)は、長さ8間半(14.7m)、幅5尺(1.5m)です。魚梁船は剣先船よりも短く、柏原船はさらに短かったのですが、幅は柏原船のほうが広かったようです。屈曲の多い平野川を運航するために長さを短くしなければならなかったけれども、積荷の量を少しでも確保するために幅を広くしたのでしょう。
船には加子(かこ・船頭)が2人乗り、普段は棹で、上りには引き綱も使って運航したようです。引き綱を使う際には、1人が岸から綱で引いたようです。船には、城米で12石、商人荷物で15石積みとなっていましたが、実際には20石程度の荷を積めたようです。
船の建造費は、元禄15年(1702)で1艘につき銀250目とあります。これは5か月分の売り上げに相当する金額です。なお、20年程度で新造が必要だったようです。
積荷は上りが干鰯や種粕などの肥料が多く、下りは米や綿類などが多かったようです。肥料は盛んになった綿栽培に欠かせないもので、干鰯といっても、実際には北前船で運ばれてくる鰊が多かったようです。これらの肥料によって、柏原周辺の村々の綿栽培が営まれたのです。
(文責:安村俊史)
写真:本郷の建物の外壁に使用されていた柏原船の船板 -
大坂組の参加 柏原船の営業が開始されたころ、大阪市中の川筋には、上荷船(うわにぶね)・茶船(ちゃぶね)と呼ばれる川船が運航していました。上荷船・茶...(2017年2月7日 文化財課)
大坂組の参加
柏原船の営業が開始されたころ、大阪市中の川筋には、上荷船(うわにぶね)・茶船(ちゃぶね)と呼ばれる川船が運航していました。上荷船・茶船は、大阪市中を独占的に運航しており、ほかの船が市中に入ることは認められませんでした。どうしても入る場合は、上荷船・茶船に料金を払うことになっていました。ところが、柏原船は、幕府から大阪市中への乗り入れが認められていました。また、それまで上荷船・茶船は、平野川でも運航していたのですが、平野川は柏原船が独占的に運航できることになったため、これを不服とする上荷船・茶船と柏原船のあいだで、争いが絶えませんでした。
柏原船の営業をはじめた末吉孫左衛門長方のあとを継いで代官となった長明は、柏原村の復興を急ぐために、大坂の商人を柏原船仲間に参加させることにしました。これに応じた14人の大坂商人が、「大坂組」として寛永17年(1640)に柏原に移り住み、柏原船仲間に加わりました。これで船数は30艘増えて70艘になりました。平野から参加するようになった「平野組」8人10艘、もとからの「柏原組」15人27艘と惣仲間持ち3艘を加えて、合計70艘、三組による営業体制ができあがりました。
大坂組14人は、先に開かれた「新町」の北に「坂井町」と呼ばれる町を開いて、やはり道の両側に店を構えることになりました。長さ35間半ということなので、60m余りにわたり、店舗のみが建ち並びました。1軒あたりの間口は5間(9m)程度の建物になります。坂井町の地は、現在の大正通りの南側にあたります。
ところが、坂井町での営業がようやく軌道にのった正保3年(1646)、洪水で破損した堤防の復旧工事が終わった地への再移転が代官から申しつけられました。大坂組の人たちが、止むを得ず移った地が「今町」です。今町では、奈良街道の両側に、坂井町と同じように店が建ち並びました。その後、今町が柏原村の経済の中心として栄えていきます。三田家のように、今町移転から現在まで住み続けておられる家もあります。
(文責:安村俊史)
写真:了意川(右側が船だまり、柏原船の終点) -
柏原船運航開始 柏原船は、株式組織で運営されました。船仲間を組織し、船の建造などの準備を進めたうえで、寛永13年(1636)の秋から営業を開始しま...(2017年1月25日 文化財課)
柏原船運航開始
柏原船は、株式組織で運営されました。船仲間を組織し、船の建造などの準備を進めたうえで、寛永13年(1636)の秋から営業を開始しました。船持(株主)が15人、船数が40艘の体制でした。船持は実際に特定の船を所有するのではなく、船数分の株を所有し、実際には船乗りが運航していました。この株を売買することによって、船持はどんどん変わっていきました。
営業当初の船持には、柏原村だけでなく、近隣の村々からの参加もありました。柏原村からは小山忠右衛門、松本庄右衛門、松本清兵衛の3人で、清兵衛は8艘もの船株を所有していました。松本家には、柏原船関係の史料が多数残されていたようで、『柏原市史』にも紹介されていますが、その後、これらの史料の所在が不明となっており、現在は確認することができません。また、柏原船の準備に参加した庄屋の一人である柏元家が船持に参加していないのが不思議に思われます。柏元家は各地で土地を所有するなど富裕な庄屋であったのですが、その後も柏原船の営業には参加していません。柏元家が、なぜ柏原船の営業に参加しなかったのか、その理由はよくわかりません。
柏原村以外には、大井村、中川村、太田村、中道村、木本村、北木本村の有力農民らと、大坂から2人、平野庄からも1人の参加がありました。大井村の真野九右衛門、治右衛門は、それぞれ8艘という多数の船株を持っていました。
『柏原町史』によると、船持たちは、古町(当時は「新町」と呼ばれていました)の西約1丁(109m)に新しい町を開き、そこに店を構えたということです。小字「古屋敷」の地ということなので、現在の古町1丁目6~7番の地、柏原警察の北側付近にあたります。ここで、道の両側に店を並べて営業を始めたようです。
紆余曲折を経て開始された柏原船の営業ですが、必ずしも順調には進まなかったようです。そして、大坂から商人が参加するようになるのですが、その経緯は次回ということにしましょう。
(文責:安村俊史)
図:柏原船(『和漢舩用集』の図に彩色) -
柏原船の運航へ 柏原村が二度の洪水に襲われたころ、村は幕府領で、平野の末吉孫左衛門長方が代官を勤めていました。孫左衛門は、柏原村を自力で復興させる...(2017年1月16日 文化財課)
柏原船の運航へ
柏原村が二度の洪水に襲われたころ、村は幕府領で、平野の末吉孫左衛門長方が代官を勤めていました。孫左衛門は、柏原村を自力で復興させることは困難であると考え、平野川筋に船を通し、その営業利益によって村を復興させようと考えました。
孫左衛門は、元和6年(1620)の洪水直後からこの計画を立て、幕府に上申していました。しかし、幕府はこの計画を認めながらも、なかなか運航許可が出せないまま13年後の大洪水が起こってしまいました。これによって、幕府からも早く準備を進めるように指示があり、柏原村の庄屋らが準備にとりかかりました。了意川の浚渫をしたり、実際に川船で積荷を運んだりして、安全に運航できることを確認したうえで、寛永13年(1636)、大洪水から3年後に運航を始めることになりました。
了意川とは、柏原村の東寄りを北へ流れている川です。かつて久宝寺村の了意が船を通すために整備をしたために了意川と呼ばれるようになったということですが、詳しいことはわかっていません。この了意川(了意井路ともいう)を下ると、平野付近から下流は平野川と呼ばれ、大坂の京橋で淀川に合流していました。旧大和川水系の一つですが、それほど川幅はなく、水量も余り多くない川です。大和川付け替え後は、新大和川の水を青地樋から取水しています。
流域の村々がこの川から田畑の用水を取水するため、船の運航に支障を来たすこともありました。取水のため、樋や水車を設置しているところがありました。とりわけ4月から8月ごろは、用水取水のために川を堰きとめることが多く、船の運航ができないことも多かったようです。そこで、簡単に水量を調節できる戸関樋を設けるなどの工夫がなされていました。それでも、近隣の百姓とはもめることが多かったようです。
(文責:安村俊史)
図:築留・青地樋用水組合村々絵図(右側の川が平野川、小山家文書) -
くり返される洪水 今の大和川は、宝永元年(1704)に付け替えられた人工の川であることは、みなさんご存知のことと思います。付け替え前の大和川は、現...(2017年1月10日 文化財課)
くり返される洪水
今の大和川は、宝永元年(1704)に付け替えられた人工の川であることは、みなさんご存知のことと思います。付け替え前の大和川は、現在の柏原市役所の前から北北西に流れていました。その大和川が、たびたび洪水をおこしていたこともご存知だと思います。大和川の左岸にあたる柏原村(河内国志紀郡)も、たびたび洪水に襲われていました。
『柏原船由緒書』によると、柏原村を襲った二度の洪水から村を復興させるために柏原船を運航するようになった、とあります。その二度の洪水とは・・・。
元和6年(1620)5月20日に、大雨で柏原村の大和川堤防が切れ、運ばれてきた砂によって田畑が埋まってしまいました。さらに寛永10年(1633)8月10日には、長さ300間(540m)にわたって左岸堤防が切れ、同じ志紀郡の船橋村や国府村(藤井寺市)でも堤防が切れたようです。柏原村では45軒の家屋が流され、36人が死亡、牛馬6疋が死んだとあります。このころの柏原村は、現在の八尾市との市境付近、国道25号の西側付近にありましたが、被害が大きかったため、その南、洪水で運ばれてきた土砂が堆積してやや高くなった今の本郷の地に村を移しました。もと村があったところは耕地としましたが、その地は「古屋敷」と呼ばれました。この二度の洪水によって、柏原村は大きな打撃を受けてしまいました。この洪水から復興するために運航されたのが、柏原船だったのです。それでは、柏原船とはどんな船だったのでしょう。紹介していきたいと思います。
それにしても、柏原村は、大和川の洪水によって、これだけ大きな被害を受けていながら、大和川の付け替えには一貫して反対していました。洪水の心配よりも、村の土地を奪われることを心配したためでしょうか。
(文責:安村俊史)
参考文献 『柏原町史』1955年
図:今町絵図(右が北、濃い茶色が了意川、柏元家文書) -
大和川のつけかえ工事 堤防の発掘調査成果から、大和川のつけかえ工事の実態について考えてきました。つけかえ工事は、宝永元年(1704)の2月から10...(2016年11月7日 文化財課)
大和川のつけかえ工事
堤防の発掘調査成果から、大和川のつけかえ工事の実態について考えてきました。つけかえ工事は、宝永元年(1704)の2月から10月までの8か月、実質は7か月半で完工しています。信じられないようなスピード工事です。
工期を短縮できた理由は、大きくふたつ考えられます。ひとつは幕府と各藩が区間を分担し、同時に着工したことです。現在の工区割りという方法と同じです。これならば、各藩が競い合うことにもなり、工期の短縮が図れます。早く終われば経費も安くすみます。
もうひとつは、綿密な測量と設計によって、掘削土量と堤防の盛土量をほぼ一致させたことです。設計段啓での差は1割程度です。これによって無駄な掘削や残土の処分、搬入などを最小限におさえることができました。その結果、新大和川は基本的に川底を掘らず、両岸に堤防を築くことによって造られたのです。27年度の企画展のテーマでもあったのですが、当時の人の技術や計算力には驚くばかりです。
そして堤防断面の発掘調査は、工事を急いでいたようすを十分に物語ってくれました。もとの作物や耕作土はそのままで土を積み上げ、土はできるだけ近くの掘削土を利用したため、場所によっては砂ばかり積み上げるようなところもありました。また、土を叩き締めることもせずに積み上げて、最後だけ形を整えて芝を張って仕上げています。堤防の強度は二の次で、最後の形さえ整っていればそれでいいと工期を急いでいたことがよくわかります。
その後の堤防のかさ上げも、周辺の洪水に伴う土砂の処分地としての利用という面が大きかったようです。粗い砂が1メートル以上も積み上げられています。洪水土砂の処分と堤防のかさ上げという一石二鳥をねらったようです。
今後、堤防の調査を行なうことができれば、また新しい成果があがることでしょう。文献史料が限られているため、発掘調査に期待するところが大きくなります。それにしても、現在の大和川堤防は、大半がこんな弱い堤防でできています。「これでだいじょうぶなのかな」。素朴な疑問です。
(文責:安村俊史)
写真:大和川の風景
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土を積む 小山平塚遺跡の調査では、堤防の盛土に良質の粘土が使用されていました。しかし、船橋遺跡や長原遺跡では、砂質土が積み上げられていました。「川...(2016年10月25日 文化財課)
土を積む
小山平塚遺跡の調査では、堤防の盛土に良質の粘土が使用されていました。しかし、船橋遺跡や長原遺跡では、砂質土が積み上げられていました。「川違新川普請大積り」(コラム2)などから、堤防の盛土には工事に伴う掘削土が使用され、両者がほぼ一致するように計画されていたことがわかっています。盛土量のほうが多ければどこかからその土を持ち込まなければなりません。逆に掘削土のほうが多ければ、残土を処分しなければなりません。両者の土量がほぼ一致するという無駄のない効率的な工法であり、8か月という短期間で完工した大きな理由のひとつです。
一方で、このような工法であれば、掘削土が砂であっても砂をそのまま堤防に積み上げることになります。上町台地や瓜破台地を掘削した土は良質の粘土が中心となるでしょう。しかし、左岸堤防に沿って掘られた落堀川は、台地だけでなく氾濫原や旧河川をも横断して掘られていますので、当然さまざまな土砂が混ざることになります。
船橋遺跡周辺は、大和川・石川の氾濫原だったため、砂などが含まれているのは当然です。砂で築かれた堤防は、一度水が浸入すると一挙に崩壊する危険性を伴うため、堤防の盛土としては避けるべきものなのです。しかし、堤防を築く際に、そんなことは考慮されていなかったようです。決められた大きさの堤防を築けばそれでよかったのです。おそらく、左岸堤防は、場所によって堤防の強度がかなり異なっているのではないでしょうか。
また、4地点とも積み上げ途中で叩き締めが行われていないことがわかっています。右岸の2地点は、ほぼ水平に積み上げられていますが、左岸では適当に積み上げられています。本来ならば、積み上げ途中で叩き締めて堤防の教化を図るべきですが、一切なされていません。叩き締めると作業量が多くなり、盛土も余分に必要となります。叩き締めを行わず、できるだけ早く設計の大きさに完成させることが求められていたのでしょう。堤防の強度よりも工期の短縮のための工事だったことがよくわかりました。
(文責:安村俊史)
写真:2011年1月の藤井寺市大井の井手口南樋の撤去工事。つけかえ当時の堤防は確認できなかった。
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それぞれの古墳 古墳一覧表 船氏王後墓誌 松岳山古墳群の変遷と玉手山古墳群 松岳山古墳群の造営集団 松岳山古墳群(まつお...(2016年10月25日 文化財課)
松岳山古墳群(まつおかやまこふんぐん)は、柏原市国分市場1丁目、大和川左岸の丘陵上に営まれた古墳時代前期の古墳群です。柏原市最大の前方後円墳・松岳山古墳を中心に、9基以上の古墳から成っています。
大きくは西から東へと古墳が造営され、松岳山古墳以外は直径10~20mの小規模な円墳・方墳だったようです。かつては墳丘まで確認できたようですが、 十分な調査もされないまま、松岳山古墳・茶臼塚古墳以外は昭和30年前後の宅地造成により消滅、過去の出土品も多くが散逸し、実態は明らかにされていません。
上空から見た松岳山古墳群(中央の森、北から)
松岳山古墳群の位置(赤は現存、黄は消滅)それぞれの古墳<古墳群一覧表>
松岳山古墳
松岳山古墳は松岳山古墳群の中心となる古墳です。墳丘長130mの前方後円墳で、美山(みやま)古墳とも呼ばれます。墳丘の構造や後円部墳頂にある石棺、その前後に立つ立石、楕円筒の埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、1kmほど西にある玉手山古墳群とともに、古くからたいへん注目を集めてきました。詳しくはこちら
向井山茶臼塚古墳
松岳山古墳の西に、直径が20m余りの円墳とされる古墳がありました。竪穴式石室の存在が推定され、埴輪も出土したようですが、詳細は不明です。
出土した銅鏡3面から、松岳山古墳よりも古くなると考えられます。銅鏡はいずれも重要文化財に指定され、所蔵は国分神社、現在は大阪市立美術館に寄託されています。詳しくはこちら市場茶臼塚古墳
向井山茶臼塚古墳より西にあったとされ、直径10メートル前後の円墳だったようです。この古墳は、出土品も埋葬施設の形態もまったく不明のままに、宅地造成によって向井山茶臼塚古墳とともに破壊されてしまいました。
茶臼塚古墳
茶臼塚古墳は、松岳山古墳の西側に接するように築かれた長方形墳です。埋葬施設は竪穴式石室で、豊富な副葬品が出土しています。詳しくはこちら
ヌク谷北塚古墳
松岳山古墳の東はヌク谷と呼ばれ、北塚・南塚など5基以上の古墳があったようです。中でも最も西にあったのがヌク谷北塚古墳です。詳しくはこちら
ヌク谷南塚古墳
ヌク谷北塚古墳のすぐ南にある直径11mの円墳です。西は松岳山古墳に接しています。墳丘は自然石で葺かれ、赤色顔料が付着した板石が多数出土し、竪穴式石室が存在したようです。円筒埴輪の破片も多数認められ、墳丘に樹立されていたと思われます。詳しくはこちら
ヌク谷東ノ大塚古墳
ヌク谷東ノ大塚古墳は、北塚古墳・南塚古墳のすぐ東にある直径約30mの円墳だったようです。1961年の宅地造成により破壊されました。出土品の歯車形碧玉製品は藤田美術館が所蔵し、重要文化財に指定されています。他に類例をみない碧玉製品です。詳しくはこちら
税所篤(さいしょあつし)と松岳山古墳群
明治2年(1869)から14年(1881)の間、柏原は大阪府ではなく、堺県に属していました。その県令税所篤は、無類の好古家で管内の遺跡を各所で発掘し、遺物を収集しています。大山古墳前方部の発掘は有名ですが、税所は松岳山古墳にも触手をのばしています。一時、税所が所有していたという船氏王後墓誌に関心があったため、その出土地とされる古墳の発掘を実施することにしたのでしょう。
明治10年(1877)10月、税所は沼田滝に命じて松岳山古墳の石棺を発掘、続いてヌク谷南塚古墳、東ノ大塚古墳も発掘しています。その際の出土品については、各古墳の項で紹介しています。出土品のうち刀剣類はもとに戻し、他の出土品は沼田が持ち帰ったといいます。この際の記録が出土品の図面とともに国分村の堅山家に残されているということを梅原末治氏が紹介しています。この記録は所在不明でしたが、平成23年9月に再発見されました。
(安村俊史「続・税所篤と松岳山古墳群-堅山家文書の再発見-」『館報』 第24号 2012)船氏王後墓誌
船氏王後首の経歴などを記録した銅製の墓誌です。江戸時代に松岳山古墳周辺から出土したという伝承がありますが、出土地点や、いつ発見されたのかは不明です。
現在は東京の財団法人三井文庫が所蔵し、国宝に指定されています。詳しくはこちら松岳山古墳群の変遷と玉手山古墳群
築造順
中国製の銅鏡3面が出土したという向井山茶臼塚古墳は、三角縁神獣鏡の構成を考えると、松岳山古墳に先行し、古墳時代前期前葉~中葉と考えられます。
茶臼塚古墳は、円筒埴輪の特徴などをみると松岳山古墳に先行する可能性も考えられるのですが、松岳山古墳の前方部前面に接するように築かれていることから、松岳山古墳よりも遅れて、おそらくほぼ同時に築かれたと考えられます。茶臼塚古墳は中期古墳にみられる陪塚の先駆的な形態と位置づけることができるかもしれません。
ヌク谷東ノ大塚古墳の年代は決めがたいですが、北塚古墳から出土した倭製の三角縁神獣鏡は新しいタイプのものであり、古墳時代前期後葉に下ると考えられます。
資料を総合的に考えると、松岳山古墳群は西から東へと順に築造されたと考えられ、盟主墳の松岳山古墳と付属する小古墳という評価はできません。小規模な古墳が西から東へ次々と築造されていくなかで、松岳山古墳のみが突出する規模をもって出現し、その後、また小規模な古墳が築造されたのでしょう。古墳群が造営されたのは、古墳時代前期前葉から後葉(3世紀末~4世紀後半)にかけてと思われます。
比較
松岳山古墳は前方後円墳で規模が突出するため、玉手山古墳群に含めて位置づける研究もみられます。しかし墳形や規模には違いがあり、やはり玉手山古墳群とは切り離して評価するべきでしょう。
松岳山古墳群 玉手山古墳群 墳形 松岳山古墳のみが前方後円墳
茶臼塚古墳が長方形の墳丘
それ以外は円墳か方墳ほぼ前方後円墳
西山古墳は円墳規模 松岳山古墳以外は小規模
(松岳山古墳は墳丘長130m、その他は10~30m)大規模
(1・3・7号墳が約110m、
その他は50~90m)板石積み 松岳山古墳・茶臼塚古墳・ヌク谷東ノ大塚古墳でみられる 玉手山1号墳の後円部墳頂以外みられない 埋葬施設 竪穴式石室が中心主体だが、ヌク谷北塚古墳のみが粘土槨
ヌク谷北塚古墳の粘土槨棺床下に礫敷きがあり、古墳群で唯一竪穴式石室の構造が確認されている茶臼塚古墳ではみられない
玉手山4号墳以外、竪穴式石室が中心主体
4号墳以外のすべての竪穴式石室の粘土棺床下に礫敷きがみられる
三角縁神獣鏡 5面以上の中国製・倭製の三角縁神獣鏡が出土、さらにその数は多かったよう 駒ヶ谷宮山古墳の倭製三角縁神獣鏡以外は出土せず
※駒ヶ谷宮山古墳は玉手山古墳群に含めない意見もある埴輪 共通要素 松岳山古墳の円筒埴輪の口縁や体部の形態、内外面をタテハケ後にナデで仕上げる技法などは、玉手山1号墳・7号墳に共通している 松岳山古墳では鰭付の楕円筒埴輪が出土
※ただし、松岳山古墳と茶臼塚古墳以外の埴輪について詳細不明鰭付の埴輪は出土せず
※1号墳の墳裾で楕円筒埴輪による埴輪棺が見つかっているこれらの状況から考えると、松岳山・玉手山古墳群それぞれの埴輪製作集団は、互いに情報交換や技術交流は行っていたものの、異なる集団であったと考えられます。
松岳山古墳群の造営は、玉手山古墳群に遅れて開始され、駒ヶ谷周辺の古墳を玉手山古墳群に含めないとすれば、玉手山古墳群の造営終了後もしばらく続けられたと推察されます。最大の松岳山古墳は玉手山7号墳とほぼ同時期で、若干松岳山古墳のほうが先行し、玉手山古墳群で100mクラスの前方後円墳が築造されていた時期に並行するようです。
松岳山古墳群の造営集団
本拠地
松岳山古墳群を営んだ集団はどのような集団だったのでしょうか。松岳山古墳群の周辺には古墳時代前期の集落はみられず、大規模な水田を営める平野部もないため、彼らはこの古墳群から離れた別の地に本拠地を置き、古墳のみをここに造営したと考えられます。現在のところ、本拠地は特定できていません。
大和川を利用した広い交流
松岳山古墳のある丘陵が大和川左岸の崖上にあり、各古墳が大和川に臨む尾根筋に並んでいることを考えると、被葬者集団と大和川の関係を考えずにはいられません。
松岳山古墳の石棺側壁や茶臼塚古墳の石室に、四国産の石材が使用されていることなどから、大和川水運を利用して四国にまで交流をもつような集団だったと推定されます。
さらに、松岳山・茶臼塚古墳の墳丘の板石積みは、高句麗などを系譜とする可能性があり、松岳山古墳出土の土師器も朝鮮半島に類例があります。遠く朝鮮半島とも交流があったと想定できます。
古墳の石材を管理
松岳山古墳群の各古墳には、大量の安山岩や玄武岩の板石が使用されています。竪穴式石室だけでなく、墳丘にまで使用された板石の量は膨大です。これらの石材は、東へ500mにある芝山で産出され、前期古墳の竪穴式石室用材として、玉手山古墳群はもちろん、箸墓古墳など大和の主要な古墳、西求女塚古墳(神戸市)の石室石材としても使用されている点が注目されます。
おそらく、これらの石材は大王家が管理し、誰もが使用できるものではなかったと思われます。松岳山古墳群の被葬者集団は、芝山で産出するこれら石材の管理や産出、運搬などにもあたっていたのではないでしょうか。
松岳山古墳群の位置どのような集団だったか
松岳山古墳群の各古墳が、松岳山古墳以外、小規模なものばかりでありながら、豊富な副葬品を保有していたのは、広域支配しているような首長ではなく、大王家にとって大和川水運と石材管理などを担う重要な職業集団だったからではないでしょうか。
そのなかで、松岳山古墳の被葬者は、何か個人的に活躍するような事情があって、130mもの前方後円墳を築けたと思われます。
松岳山古墳のあと、ヌク谷の各古墳が築造されたと考えられますが、もとの小規模な古墳に戻っています。そして間もなく、古墳の造営は終了します。最後の古墳と考えられるヌク谷北塚古墳の埋葬施設は、より簡素な粘土槨になっています。
このように評価すると、一部の研究者が指摘するような松岳山古墳群を造営した集団が成長して古市古墳群を造営したという説は成り立ちがたいと思われます。
特異な墳丘や船氏王後墓誌の出土によって著名な松岳山古墳ですが、出土品の散逸などで、これまで基礎的な研究がおろそかにされてきた面があります。これまでの資料をもとに、いま一度、松岳山古墳を適切に評価できれば、それは一地域の歴史に留まらず、わが国の古墳時代前期を語るうえで重要なものになるでしょう。
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堤の形と大きさ 長原遺跡では、カマボコ状の堤防だったのではないかとされていますが、ほかの3箇所で確認された堤防は、いずれも美しい台形断面でした。長...(2016年10月17日 文化財課)
堤の形と大きさ
長原遺跡では、カマボコ状の堤防だったのではないかとされていますが、ほかの3箇所で確認された堤防は、いずれも美しい台形断面でした。長原遺跡の場合は、後世の改変が著しいため、本来は台形だったとも考えられます。あるいは、ほかの3箇所は幕府が直営で工事を実施した区間になりますが、長原遺跡はおそらく岸和田藩が担当した区間となるため、施行者によって若干の違いがあったのかもしれません。先に検討したように、長原遺跡では川床の掘り下げが行われていたと考えられ、掘り下げを行っている区間では、堤防の維持管理が雑になっていたことも考えられるかもしおれません。
次に堤防の大きさをみてみましょう。八尾南遺跡では、ほぼ設計どおりの堤防が確認されていますが、船橋遺跡、小山平塚遺跡では設計よりも高さで0.9m(20%)程度低いことがわかりました。積み上げられた土が圧縮されて若干高さが低くなっていると思われますが、当初からある程度低かったことは間違いないでしょう。もしかすると、左岸堤防は設計高(2.5間、4.5m)よりも低い2間(3.6m)で施工されたのではないでしょうか。もしそうだとすると、左岸堤防は右岸堤防よりも1間(1.8m)も低かったことになります。今後の左岸堤防での調査に注目したいと思います。
左岸の2箇所の調査地では、堤防基底部の幅(根置)も若干小さかったようです。これは小山平塚遺跡で発見された杭列によって、設計どおりに堤防幅を示す杭が打たれていたものの、盛土を積み上げた結果、幅が若干狭くなったのだと考えられます。杭はほぼ30cm間隔で打たれていることから、目印としての性格よりも、土留めとしての性格を考えたほうがいいようです。調査では杭だけが発見されていますが、杭と杭の間には割竹などを利用した土留めの工夫がされていたとも考えられます。ほかの調査地では、調査範囲の関係もあり、この杭列は確認されていません。杭列が大和川堤防全体に及ぶのか、小山平塚遺跡周辺だけの工法なのか、これも今後の調査で明らかにしていくことが必要でしょう。
(文責:安村俊史)
図:南堤と北堤