文化・スポーツ
-
柏原市立歴史資料館では、毎年、体験教室「わらぞうりを作ろう」を開催しています。 参加希望の方は、歴史資料館へ電話(072-976-3430※資料館は新年...(2018年12月28日 文化財課)
柏原市立歴史資料館では、毎年、体験教室「わらぞうりを作ろう」を開催しています。
参加希望の方は、歴史資料館へ電話(072-976-3430※資料館は新年は1月4日から)、もしくは窓口にてお申込みください。定員15名、先着順で受け付けます。どなたもふるってご参加ください。
- 日時:2019年2月3日(日) 13:30~16:00
- 会場:歴史資料館 3階研修室
- 定員:15名(小学5年生以上が対象ですが、小学4年生以下でも保護者同伴であれば参加可能です)
- 参加費:無料
-
末吉康三郎氏文書が寄託されました。 大阪市平野区の末吉家といえば、平野七名家の一つで、柏原村の代官を務めた末吉孫左衛門長方が有名です。長方のとき...(2018年12月28日 文化財課)
末吉康三郎氏文書が寄託されました。
大阪市平野区の末吉家といえば、平野七名家の一つで、柏原村の代官を務めた末吉孫左衛門長方が有名です。長方のときに、柏原村を洪水から復興させるために平野川に柏原船を運航させることになりました。その末吉家の分家にあたる末吉康三郎家に伝来する古文書が当館に寄託され、大阪市史編纂所の協力も得て、調査・整理を進めることになりました。
柏原船に関する史料も多く、その運営に関わる史料や柏原村の三田家や寺田家との手紙などもあります。当館の古文書講座のテキストとしても使用し、今後は目録の刊行をめざします。また、新しい柏原の歴史をみなさんにお知らせすることができると思います。お楽しみにお待ちください。
寄託された末吉康三郎氏文書 -
高取藩 大和国高取藩は、今の奈良県高市郡高取町にあり、高取城を中心とした藩でした。天正年間に本多利久が高取城の整備・拡張に努め、寛永17年(164...(2018年11月18日 文化財課)
高取藩
大和国高取藩は、今の奈良県高市郡高取町にあり、高取城を中心とした藩でした。天正年間に本多利久が高取城の整備・拡張に努め、寛永17年(1640)に植村家政が2万5千石で藩主となったあと、家貞、家言、家敬(いえゆき)とつづき、家貞の代に2万2千石、家言の代に2万5百石となりました。その後、九代目家長のときに2万5千石に戻り、植村家は明治まで藩主を務めました。
四代目家敬は、延宝8年(1680)に分家の植村政成の子として生まれましたが、三代目家言の亡くなる直前に養子となり、元禄9年(1696)5月に藩主となりました。そして、宝永元年(1704)に大和川付け替え工事の手伝いを命じられました。2万石の藩にとって、付け替え工事の手伝いはきびしいものだったでしょう。
高取藩は、柏原藩とともに宝永元年(1704)の6月28日に手伝いを命じられました。その後のくわしい記録はありませんが、柏原藩とともに姫路藩担当分の入用金1,378両3歩の負担を命じられています。普請箇所の記録も確認できませんが、西除川の付け替えや大乗川の付け替えなどを担当したのではないかと考えられます。
また、『柏原藩藩政日記』の10月7日に、「植村右衛門佐様奥様去頃御死去之由」とあり、藩主家敬の妻が付け替え工事中に亡くなったようです。そうであるならば、付け替え工事が進められる中で、藩主の妻が亡くなり、高取藩は大混乱したことでしょう。
高取城は、建物は残っていないものの、石垣等は現在もよく残っています。お里沢一で有名な壷坂寺から登ることもでき、古い町並みが残っている城下へ下る遊歩道も整備されています。高取の町は、とりわけひな祭りのころには賑わいをみせます。
これら手伝い普請を命じられた藩をめぐってみて、こんなに遠くから見ず知らずの地の工事を手伝うことになり、多額の費用負担で財政難に陥り人々を苦しめたことを考えると、大和川付け替え工事の違う面を見る思いがします。
(文責:安村俊史)
写真:高取城天守跡 -
柏原藩 丹波国柏原(かいばら)藩は、現在の兵庫県丹波市柏原町、もとの氷上郡柏原町にあたります。慶長3年(1598)に、織田信包(のぶかね)が伊勢国...(2018年11月11日 文化財課)
柏原藩
丹波国柏原(かいばら)藩は、現在の兵庫県丹波市柏原町、もとの氷上郡柏原町にあたります。慶長3年(1598)に、織田信包(のぶかね)が伊勢国安濃津(あのうつ)より移ったことに始まります。元禄8年(1695)には、織田信休が大和国宇陀郡松山より2万石で藩主となりました。信休の父・信武が家臣2人を殺した宇陀騒動とよばれる事件のため、その長男・信休が減封のうえ2万石で柏原へ移ることになったのです。その信休のときに、大和川つけかえ工事の手伝いを命じられました。
柏原藩には、『藩政日記』が残っており、その「宝永元甲申年日記」には、大和川付け替えが命じられてから完成するまでの藩の動きが記録されています。それによると、6月28日に藩主信休に大和川付け替え工事の手伝いが命じられ、7月12日に国許に奉書が届き、すぐに役人が現地の普請役所へ向かい、7月末から工事に着手しています。非常にあわただしかったようです。また、7月29日には、途中で撤退した姫路藩担当分の入用金1,378両3歩を高取藩とともに負担するよう命じられています。柏原藩の工事箇所は、十三間川を南へ延長する工事を主とし、築留堤防の築堤、新川の切通し、幕府工事箇所の堤防への芝貼りなどを行っています。十三間川は、大阪湾岸近くを南北に通り、淀川から住吉などへの舟運に利用されていました。この川を新大和川まで延長し、旧大和川を利用していた剣先船などの舟運として利用できるようにしたものです。そして、10月13日には、「大和川切違辰刻首尾好相済候由」と記されています。
しかし、大和川付け替え工事による出費は、2万石の小藩には負担が大きかったようです。柏原に移った信休は、できるだけ早く屋敷となる陣屋を造りたかったようですが、付け替え工事によって藩の財政が苦しくなったため、陣屋が完成したのは、正徳4年(1714)のことでした。
その陣屋は今も一部が残っており、整備されたうえで一般に公開されています。陣屋の前には柏原歴史民俗資料館があり、柏原藩の歴史を学ぶことができます。
(文責:安村俊史)
写真:柏原藩陣屋跡 -
岸和田藩 和泉国岸和田藩は、大阪府岸和田市にあった藩です。豊臣秀吉のときに、中村一氏が岸和田城主になったことに始まります。中村氏のあと小出氏、松平...(2018年11月4日 文化財課)
岸和田藩
和泉国岸和田藩は、大阪府岸和田市にあった藩です。豊臣秀吉のときに、中村一氏が岸和田城主になったことに始まります。中村氏のあと小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640)に、摂津高槻(大阪府高槻市)から岡部宣勝が6万石で藩主となりました。宣勝のあと、行隆、長泰とつづき、明治まで岡部氏が藩主を務めました。行隆の代に5万3千石となり、その後明治まで石高は変わりませんでした。
貞享3年(1686)に藩主となった岡部三代目の長泰のときに、岸和田藩は大和川つけかえ工事の手伝いを命じられました。長泰は貞享3年(1686)から享保6年(1721)まで藩主を務め、享保9年(1724)に75歳で亡くなっています。有名なだんじり祭りは、つけかえ工事前年の元禄16年(1703)に、京都の伏見から稲荷社を三の丸に勧請したことから始まったと伝えられています。ほかにも、河内金剛寺(河内長野市)など社寺の修築、朝鮮通信使の接待役などを務めた人物でした。
付け替え工事は、幕府担当部分の西側、川辺村から城蓮寺村までの23町(2.5km)の工区を担当しました。瓜破村周辺は台地となっており、約2間(3.6m)ほどの掘り下げが必要でした。城蓮寺村では、麦の刈り取りまで待って欲しいという村人からの願いがあったにもかかわらず、工事を急いでいたため、かなりの麦が植わったまま工事が進められたという記録があります。城蓮寺村は三田藩担当部分との境界にある村ですが、岸和田藩担当部分での出来事だったと思われます。
岸和田城は、今も美しい姿を見せてくれます。城内の資料館には、岡部氏に関する史料が展示され、長泰の肖像画もあります。近くのだんじり会館でも、だんじりを始めた藩主として、岡部長泰が取り上げられています。ところで、岸和田のだんじり祭りは、大和川付け替え完成を祝って始まったという根強い説があります。しかし、付け替え前年に始まっていたという記録があること、いくら岸和田藩とはいえ、1万両、現在の20億円程度の出費がありながら、盛大な祭りをする余裕があったとは信じがたいのですが。
(文責:安村俊史)
写真:岸和田城 -
三田藩 摂津国三田藩は、今の兵庫県三田市周辺にありました。天正10年(1582)に山崎片家が三田城主となったことに始まり、山崎氏のあと、有馬氏、松...(2018年10月28日 文化財課)
三田藩
摂津国三田藩は、今の兵庫県三田市周辺にありました。天正10年(1582)に山崎片家が三田城主となったことに始まり、山崎氏のあと、有馬氏、松平氏と藩主がかわり、寛永10年(1633)に志摩鳥羽(三重県)から移った九鬼久隆が藩主となりました。久隆は、もとの三田城内に陣屋をかまえ、3万6千石の藩でした。九鬼氏といえば、秀吉のころに水軍として活躍したことを思い出します。それが九鬼氏の家督争いを機に、水軍力の解体を目論んだ徳川家光によって、三田と丹波国綾部に二分されました。これ以降、明治まで三田藩の藩主は九鬼氏が務めました。
大和川つけかえ工事の手伝いを命じられたのは、九鬼氏七代目の隆久のときでした。隆久は、延宝8年(1680)に柳生藩主(奈良県)の柳生宗在の次男として生まれ、六代目九鬼副隆の養子となって、元禄10年(1697)に七代目をつぎました。宝永4年(1707)に藩主をゆずったあと、享保7年(1722)6月23日に43歳で亡くなりました。
三田藩は、城蓮寺村から庭井村までの23町(2.5km)の工事を担当しました。西除川の流路と交差する部分や、依羅池(味右衛門池)の中を通る部分などがありますが、工事としては、比較的楽な区間ではなかったかと思います。川底の掘り下げはほとんどなく、両岸の築堤が主な工事でした。それでも、大変な工事だったことにはかわりはないでしょう。
三田藩の陣屋は、旧三田城の跡にあり、御館は現在の三田小学校の敷地にありました。石垣などが残り、簡単な説明版が立てられています。そこから道路と堀跡を隔てた北側に有馬高校があり、その敷地内に二の丸、御茶屋、武器庫、煙硝蔵などがありました。堀と石垣が昔の陣屋を思い出させてくれます。そこから歩いて5分ほどに旧九鬼家住宅資料館があります。家老職を代々務めた九鬼家の住宅で、明治9年(1876)に建てられた擬洋風建築の内部には縁の人々に関する展示などがあります。
(文責:安村俊史)
写真:三田城跡 -
明石藩 播磨国明石藩は、今の兵庫県明石市を中心とした6万石の藩です。元和3年(1617)に、姫路城主の池田光政の所領から、十万石が小笠原忠真に与え...(2018年10月21日 文化財課)
明石藩
播磨国明石藩は、今の兵庫県明石市を中心とした6万石の藩です。元和3年(1617)に、姫路城主の池田光政の所領から、十万石が小笠原忠真に与えられ、明石城が築かれたことに始まります。その後、松平氏、大久保氏、松平氏、本多氏とうつりかわり、天和2年(1682)に、越前大野(福井県)から松平直明が6万石で藩主となりました。これ以降、石高は6万石です。そのころから藩の財政は苦しく、直明は新田開発や煙草栽培で実利をあげましたが、元禄6年(1693)には大干ばつにもおそわれました。そのため、藩士の俸禄の借り上げまでしています。
元禄14年(1701)10月、直明のあとに藩主となった嫡男松平直常のときに大和川つけかえ工事の手伝いを命じられました。これによって、藩の財政はさらに悪化しました。そのため、藩士に質素倹約に努めるよう倹約令をしばしば出しています。そこに追い討ちをかけるように、享保17年(1732)ごろから、蝗害、干ばつ、大洪水と災害が相次ぎ、藩の財政はますます悪化し、享保20年(1735)には一揆もおこっています。大和川つけかえ工事への参加が明石藩の人々をとても苦しめることになったのです。
明石藩は、姫路藩が着工した東側、庭井村から浅香山谷口(遠里小野村)までの23町(約2.5km)の工区を担当しました。上町台地を掘削しなければならないもっとも困難な工区です。もっとも高い浅香山付近で約3間(5.4m)の掘り下げが必要でした。しかも、上町台地は非常に堅い土質で、掘り下げは大変だったと思います。
ここは、浅香の千両曲がりと呼ばれる工区でもあります。また、浅香の狐のたたりなど、何かと伝説の多い地です。この工区を担当し、工事後にさらなる藩財政の悪化に苦しんだ明石藩の人たちこそ、狐にだまされたような気持ちだったかもしれません。
現在の明石城は堀と石垣、それに2つの隅櫓が残るだけですが、公園として整備され、多くの人に利用されています。JR明石駅のホームからの眺めが、もっとも美しいかもしれません。
(文責:安村俊史)
写真:明石城 -
姫路藩 播磨国姫路藩は、世界遺産姫路城で有名な兵庫県姫路市にあった15万石の藩です。慶長5年(1600)に池田輝政が播磨国に52万石余りで三河吉田...(2018年10月14日 文化財課)
姫路藩
播磨国姫路藩は、世界遺産姫路城で有名な兵庫県姫路市にあった15万石の藩です。慶長5年(1600)に池田輝政が播磨国に52万石余りで三河吉田から入部したことに始まります。藩主は、池田氏、本多氏、松平氏とかわったあと、天和2年(1682)に松平直矩が豊後日田(大分県)へ移され、陸奥福島(福島県)から移った本多忠国が藩主となりました。
忠国が藩主を務めていた元禄16年(1703)に幕府から大和川付け替え工事を命じられ、翌年2月に工事に着手しました。工事現場の監督や警備役、技術者など370人以上を現地に派遣して2月27日から工事を始めました。しかし、3月21日に本多忠国が急死したため、すべての人が姫路に帰り、工事は中断することになりました。忠国の子が幼かったため、本多家は越後村上(新潟県)に移され、付け替え工事も免除となりました。
姫路藩による付け替え工事は、川下から上流に向かっての水盛(みずもり)から始めました。水盛とは、地面の高低差を測る測量のことで、現在は水準測量といいます。水盛を行う一方で、川下より築堤工事に着手したようです。撤退までの1か月足らずのあいだに、遠里小野村まで10町(約1.1km)の工事を進めていましたが、堤防は未完成でした。のちに手伝いに追加された柏原藩が堤防の不足工事を行っています。水盛は付け替え地点に近い志紀郡太田村付近まで進んでいましたが、残りは幕府が引きついでいます。
中家文書に「大和川御用 本多中務大輔殿家来」という史料があります。そこには、大頭・藤江善右衛門、大奉行・服部将監など、57人の役人の役職と名が記され、足軽小頭10人、足軽305人とあり、合計すると372人となります。足軽は現地で人足として働き、これに現地で雇用された人足も加わっていたのでしょう。
補修工事が終わって真っ白になった姫路城には、平日でも入城待ちの長い列がみられます。ほとんどの人が見たこともなかったであろう遠くはなれた大和川の付け替え工事を命じられた藩主や家臣の驚きはどれほどだったでしょう。しかし、幕府の命令であるかぎり、断ることはできません。それが、藩主の急死、工事からの撤退、越後への移封とつづき、忠国とその家臣は大変な思いをしたことでしょう。
(文責:安村俊史)
写真:姫路城 -
工事が早くできた理由・3 工事を早く終えることができた三つめの理由として、工事区間を分割して一斉に工事に着手したことがあげられます。現在の道路や鉄...(2018年10月7日 文化財課)
工事が早くできた理由・3
工事を早く終えることができた三つめの理由として、工事区間を分割して一斉に工事に着手したことがあげられます。現在の道路や鉄道の工事でもよく行われる工区割りという方法です。上流側半分は幕府が担当し、下流側を東から岸和田藩、三田藩、明石藩が分担し、同時に工事を行っています。
その工区内を、さらに1町(109m)ごとに分割していたようです。丹北郡東瓜破村の文書に、「新川御普請南側五拾九番之御丁場」とあるようです(中九兵衛『甚兵衛と大和川』)。付け替え工事に際して、付け替え地点から海まで、1番から131番までの杭が打たれていました。東瓜破村のところには60番杭が打たれていたことがわかっていますので、おそらく59番の丁場とは、59番杭と60番杭の間、長さ1町分のことでしょう。そして、南側とあることから、左岸堤防の築堤工事だったことがわかります。この丁場を長原村の人物が請け負い、大坂釣鐘町の町人が下請けしていることが記されています。前回のコラムで紹介した方法で工事を行っていたことがわかります。
このようにすれば、隣の藩や工区に負けたくないので工事を急ぎます。そして、工事を早く終わらせることができれば、宿泊費や食事代などの出費も抑えられます。請け負った人にとっては、利益が増えるということです。これが、工事が早く進んだ三つめの理由です。
ところで、最初に手伝いを命じられた姫路藩は15万石でした。そのあと手伝いを命じられた三藩は、岸和田藩が5万3千石、三田藩が3万6千石、明石藩が6万石で、合計すると14万9千石となり、姫路藩とほぼ同じ石高となります。これも偶然とは思えません。また、最初は姫路藩に工事を任せるつもりで、工期を3年ほどとみていたようですが、姫路藩の撤退が決まると、すぐに幕府は上流半分を直営で工事し、残りを三藩に分担させるなど、迅速に対応しています。これが早く工事を終わらせることにつながっているのですから、結果的には分担させてよかったのではないでしょうか。
(文責:安村俊史)
図:大和川付け替え工事の設計書(新川普請大積り・中家文書) -
河内六寺とは 『続日本紀』に天平勝宝8歳※(756)2月条に「戊申(つちのえさる)、是日、至河内国、御智識寺南行宮、己酉(つちのととり)、天皇幸知...(2018年9月23日 文化財課)
河内六寺とは
『続日本紀』に天平勝宝8歳※(756)2月条に「戊申(つちのえさる)、是日、至河内国、御智識寺南行宮、己酉(つちのととり)、天皇幸知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等六寺礼仏」という記録が残っています。「天平勝宝8歳2月24日、孝謙天皇が難波宮行幸の際、柏原に立ち寄り、知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂の六寺を参拝した」という内容です。この六つの寺を「河内六寺」と呼んでいますが、この呼称は『続日本紀』にはなく、便宜上総称したものです。いずれも7世紀後半に創建された寺院で、推定地の位置関係から記載順に参拝したとする説が有力です。
※天平勝宝の表記…天平勝宝7年(755)1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められ、これ以後7歳~9歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へと戻している。
孝謙天皇の行幸
756年
2月24日平城宮から難波宮に行幸する途中で智識寺南行宮に立ち寄る
25日 河内六寺に行幸し、礼仏する 26日 行幸の護衛などを務める内舎人を六寺に遣わして、僧侶に誦経させ、寺に施し物をする
28日 大雨の中を智識寺南行宮から難波宮に向かい、東南新宮に入る この間、智識寺南行宮に4泊したことになり、行幸途中に立ち寄ったというよりも、六寺に参拝することが行幸の一つの目的であったと考えられます。
4月15日 帰途に智識寺(南)行宮で宿泊 17日 平城宮へ帰る 5月2日 聖武太政天皇が亡くなる この行幸には、聖武太政天皇と光明皇太后も同行し、「河内離宮に宿泊した」と『万葉集』に記されています。「河内離宮」は智識寺南行宮と考える説が強いのですが、当時河内で最も整備されていた竹原井離宮(柏原市青谷)を指す可能性が高いと考えられます。
体調が優れない聖武太政天皇は竹原井離宮で休み、河内六寺の参拝は控えたかと思われます。ただ、智識寺に対する聖武天皇の思い入れはかなり強かったと思われ、大仏開眼供養が無事に済んだお礼や、自身の体調の快復も願って、智識寺だけには参拝しているかもしれません。
天平12(740)年の2月、難波宮に行幸した聖武天皇は、智識寺の盧舎那仏を拝観したことが東大寺の盧舎那仏造立の機縁となったと、『続日本紀』に記録されています。
また『続日本紀』に記載はありませんが、孝謙天皇は天平勝宝元年(749)10月に智識寺に行幸しています。この2回の行幸時に孝謙天皇が滞在したのが、「茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)」の宅と「知識寺南行宮」です。
六寺はどこか
まず孝謙天皇の参拝順について、山本昭氏が『柏原市史』において、智識寺南行宮は智識寺のすぐ南にあたり、そこから北へ智識寺、山下寺、大里寺、三宅寺と参拝し、南へ戻って、家原寺、鳥坂寺と巡拝したとする説を出されました。次に各寺院は、地名等から智識寺が太平寺廃寺、山下寺が大県南廃寺、大里寺が大県廃寺、三宅寺が平野廃寺、家原寺が安堂廃寺、鳥坂寺が高井田廃寺にそれぞれ該当すると考えました。そして、この説を裏付けるように、大県廃寺から「大里寺」、高井田廃寺から「鳥坂寺」と書かれた墨書土器が発見され、山本氏が考えたように『続日本紀』の記述は参拝順に記されていることが有力視されています。
ただ現在でも、三宅寺については十分明らかにできていません。平野廃寺の推定地からは、十数回の調査にも関わらず、古代寺院に関連する遺構・遺物は確認できていません。採集されている最古のものは平安時代の瓦です。『続日本紀』の参拝順では、三宅寺は六寺の最北端にあたりますが、大県廃寺より北には、まとまって瓦を出土する地は知られていません。三宅寺の候補地は、さらに北の八尾市の教興寺や高麗寺跡とする説もあります。あるいは神宮寺廃寺と考える説もあります。三宅寺の位置については、今後に残された課題です。
再度孝謙天皇の足跡をたどると、一行は智識寺南行宮を発ち、北の智識寺にまず参拝、そこから後世に業平道ともよばれる道をたどり、北の山裾にある山下寺、さらに大里寺、三宅寺と巡拝しました。三宅寺から後世の東高野街道を南下すると、家原寺に至ります。さらに南へ進んで鳥坂寺を参拝し、智識寺南行宮へと戻ります。三宅寺を平野廃寺として約5km、高麗寺跡とすると約12kmとなり、いずれにしても、1日で巡拝可能な距離です。
六寺は誰が建てたのか
智識寺はその名称から、仏教に帰依する知識によって建立されたことは間違いないでしょう。それでは他の5か寺はいったい誰が建立したのでしょうか。
一般に、古代寺院においては官寺、智識寺以外は氏寺とされます。氏寺とは、氏族が繁栄を祈って建立した寺院のことです。智識寺以外の河内六寺も氏寺とすると、各寺院を建立したのは何氏なのでしょうか。
氏寺とすると
山下寺を大県主、大里寺を大里史、三宅寺を三宅史、家原寺を家原連もしくは茨田連、鳥坂寺を鳥取造などの氏寺とする説があります。また『柏原市史』では、大里寺を大県郡の大領※の氏寺に比定しています。しかし大県郡で有力な氏族と考えられるのは、自宅を行宮として提供した茨田宿禰、史料にしばしばみられる下村主ぐらいで、古代寺院を建立するほどの氏族が存在したか疑問です。しかも各寺院が400~500mの間隔で建立されていたとすると、建立氏族の基盤も400~500m四方しかなく、果たしてその程度で天皇が参拝するほどの寺院が建立できたのでしょうか。
※大領…律令制で、郡司の長官。大国の領主。この中で、家原寺の建立に茨田氏が、鳥坂寺の建立に鳥取氏が関わっている可能性は高いと考えられます。家原寺については、医王寺旧蔵の大般若経の奥書に家原里(邑)の知識の名が連ねられ、牟久史2人ほか、伯太造、牧田忌寸、物部、下村主とさまざまな氏族が家原里に居住していたことを示しています。ここには、茨田氏・家原氏の名前はありません。
鳥坂寺は、鳥取氏の祖である天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)などを祀る天湯川田神社の境内に塔跡が存在することから、鳥取氏との深い関係が考えられます。しかし、鳥取氏の本拠は鳥取郷(柏原市青谷周辺)であるのに、どうして鳥坂郷に寺院を建立し、寺院名も鳥坂寺としたのでしょうか。鳥坂寺跡出土の平瓦に「玉作阝飛鳥評」(たまつくりべあすかのこおり)の線刻がみられます。この瓦を大和川対岸の安宿郡(あすかべのこおり)に居住する玉作部からもたらされたと考えると、鳥坂寺も鳥取氏だけで建立されたのではないとも考えられます。
知識が建てた可能性
この地域に有力な氏族はいませんでしたが、智識寺の建立や河内大橋の改修にみられるように結束力の固い知識集団が存在していました。これらから智識寺以外の寺院も、知識によって建立されたのではないかと考えられます。有力な知識が、家原寺の茨田氏であり、鳥坂寺の鳥取氏だったのでしょう。
また大県郡とその周辺の知識の援助を受けて建立されたものと考えれば、狭い範囲に密集して寺院が建立されている理由が理解できます。その中心的存在が智識寺であり、そのように建てられた六寺であるからこそ、孝謙天皇も参拝したのではないでしょうか。
河内六寺が知識によって建立されたとする説や、氏寺の成立は平安時代以降であるとする研究は既にあります。寺院を氏寺と決めつけて建立氏族を探すだけでなく、さまざまな角度から寺院の造営について検討する必要があるのではないでしょうか。