文化・スポーツ
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安宿郡の郡衙(ぐんが) 古代の郡には、郡衙と呼ばれる役所が置かれました。安宿郡にも当然郡衙があったはずですが、よくわかっていません。羽曳野市飛鳥周...(2019年5月19日 文化財課)
安宿郡の郡衙(ぐんが)
古代の郡には、郡衙と呼ばれる役所が置かれました。安宿郡にも当然郡衙があったはずですが、よくわかっていません。羽曳野市飛鳥周辺が賀美(上)郷なので、飛鳥周辺にあった可能性が高いと思われますが、これまでのところ郡衙らしき遺跡はみつかっていません。郡衙ならば、東西南北の軸に合わせた大規模な建物が規則的に配置されている例が多いのですが、そのような遺構はみつかっていません。また、木簡や墨書土器などの文字資料、官人が身に着けたベルトの帯金具、人面土器や土馬などの祭祀用具などが出土することが多いのですが、このような遺物も知られていません。
柏原市円明町の円明遺跡から、墨書土器などが多数出土しており、郡衙の跡ではないかと考えられています。墨書土器とは、表面に墨で文字を書いた土器のことです。古代では、文字を書ける人は役人や僧侶などわずかな人に限られているため、墨書土器が出土するところは役所や寺院が多いのです。それで、円明遺跡が安宿郡の郡衙だったのではないかと考えられているのです。円明遺跡出土の墨書土器には、「上」「郡田」「平安」「倉」「安寺」「南一」「南中」などの文字があり、「郡田」は郡衙に関連するものかもしれません。しかし、これらの土器は、いずれも平安時代(9世紀)のものであり、7世紀代の遺構・遺物がみつかっていません。また、郡衙ならば整然とならぶ大規模な建物があるのですが、そのような建物跡は発見されていません。
そのため、郡衙があったとしても、8世紀以降のものではないかと考えられています。そのように考えるならば、7世紀代の飛鳥戸評のころは飛鳥周辺に評衙が置かれ、それが8世紀に円明遺跡に移ったとも考えることができます。いずれにしても、今のところ郡衙の所在地を明らかにすることはできません。
円明遺跡は、柏原市と羽曳野市の市境にあり、中小企業団地の造成に伴って、1970年前後に堅田直氏が発掘調査を実施されています。この調査に関連する資料が柏原市に移管されており、少しずつ整理を進めています。いずれ新しい成果を紹介することができると思います。
(文責:安村俊史)
写真:円明遺跡出土「郡田」墨書土器(当館所蔵) -
安宿郡の古代寺院 安宿郡には多数の古代寺院がありました。賀美郷に河内飛鳥寺跡、尾張郷に片山廃寺、五十村廃寺、円明廃寺、資母郷に原山廃寺、田辺廃寺、...(2019年5月5日 文化財課)
安宿郡の古代寺院
安宿郡には多数の古代寺院がありました。賀美郷に河内飛鳥寺跡、尾張郷に片山廃寺、五十村廃寺、円明廃寺、資母郷に原山廃寺、田辺廃寺、河内国分寺跡、河内国分尼寺跡、東条尾平廃寺の9箇所の古代寺院跡があります。このなかで、片山廃寺の塔跡、五十村廃寺の金堂跡・塔跡、田辺廃寺の金堂跡・東西塔跡、河内国分寺跡の金堂跡・塔跡が発掘調査で確認されています。
河内飛鳥寺跡ではため池の堤から巨大な塔心礎が出土しており、その部分を中心に寺院があったとされていますが、発掘調査の結果、古代の瓦も出土しないため、心礎が別の場所から運ばれてきたと考えられます。付近に古代寺院の跡があると考えられますが、もしかすると製作された心礎が不要になり放置されていたのかもしれません。
また、東条尾平廃寺でも発掘調査の結果、中世の遺構と奈良時代末以降の瓦が出土したのみで、寺院のようすはよくわかりませんでした。7世紀末ごろの瓦も少しあるようなので、7世紀に遡る小さな寺院があったのかもしれません。
円明廃寺は7世紀末から平安時代にかけての瓦が多数出土しており、古代寺院の存在が確実と思われますが、やはり寺院に関連する遺構が確認されていません。原山廃寺も遺構は確認されていませんが、かつては基壇と思われる高まりが残っていたということであり、大量の瓦の出土から古代寺院の存在は確実です。国分尼寺跡からも奈良時代の瓦が出土するので、周辺に国分尼寺があったと考えられます。推定地よりも南の高台にあったのではないかと考えられます。このように、河内飛鳥寺跡と東条尾平廃寺は未確定ですが、ほかの7遺跡は古代寺院跡と考えて間違いないでしょう。
大和川の北に位置する大県郡の古代寺院は河内六寺として有名ですが、それを上回る数の古代寺院が安宿郡にはあったのです。しかも、河内国の国分寺や国分尼寺も存在したことを考えると、安宿郡がいかに重要視されていたかがわかります。
(文責:安村俊史)
図:河内飛鳥寺跡出土塔心礎石(『羽曳野市史』第3巻より) -
平成30年度、柏原の今町地区は文化庁の文化遺産総合活用推進事業の補助金交付をうけて所有する地車(だんじり)の修復を行いました。この地車は黒田神社(柏原市...(2019年4月28日 文化財課)
平成30年度、柏原の今町地区は文化庁の文化遺産総合活用推進事業の補助金交付をうけて所有する地車(だんじり)の修復を行いました。この地車は黒田神社(柏原市今町1丁目)の夏祭りで五穀豊穣・家内安全を祈願して町内を曳行し、神社に宮入するものです。明治時代初期、地車大工の住吉大佐11代目川崎仙之助により製作され、板勾欄には右面に「富士の巻狩り」左面に「仁田四郎忠常の猪退治」の彫刻が施されています。
住吉大佐は安土桃山時代末期に川崎屋を屋号とした大工の佐兵衛(初代)に由来する堂宮大工・地車工匠です。11代目川崎仙之助(天保9年~大正9年)の時代に、仙之助を棟梁、宗吉(長男)と安治郎(次男)を助として父子3人で優れた地車を数多く製作し、摂河泉から大和・紀州まで地車工匠としての名声を広めました。
修復では主柱・後柱・主屋根・縁葛平・縁葛妻・板勾欄・大小屋根板・土台下駆動部材などの交換、化粧金物メッキ仕直し、洗浄(灰汁洗い)、彫刻補修、色付け、などの作業を行いました。
この修復なった今町の地車は令和元年5月12日(日)に修復完成記念のお披露目と曳行を行い、7月13・14日(土・日)の黒田神社夏祭りでも曳行されます。美麗で精緻な地車の装飾を堪能する絶好の機会です。ぜひ足をお運びください。【お披露目】
と き:令和元年5月12日(日) 9時半:お披露目式 10時より:地車曳行
ところ:黒田神社(今町1丁目3)向い 杏(あんず)の広場 -
安宿郡の終末期古墳 安宿郡には、玉手山古墳群、松岳山古墳群などの前期古墳が多数みられますが、中期になると古墳は少なくなり、後期になると安福寺横穴群...(2019年4月28日 文化財課)
安宿郡の終末期古墳
安宿郡には、玉手山古墳群、松岳山古墳群などの前期古墳が多数みられますが、中期になると古墳は少なくなり、後期になると安福寺横穴群や玉手山東横穴群などがみられます。横穴は6世紀中ごろから7世紀初めにかけて営まれますが、これにやや遅れて6世紀後半以降に群集墳の造営が盛んになります。羽曳野市域には飛鳥千塚古墳群が広がっており、その北に五十村古墳群、誉田山古墳群、少し離れて田辺古墳群や北峯古墳群などがあります。近畿では一般に6世紀代の古墳が多いのですが、安宿郡では7世紀代のほうが古墳の数が多くなります。これが大きな特徴です。
飛鳥千塚古墳群では、76基の古墳が確認されており、北に位置する五十村古墳群、誉田山古墳群を加えると総数139基の大群集墳となります。実際にはこれよりもかなり多くの古墳が存在したと考えられますが、古墳はあまり密集することなく数基から十数基ごとにまとまる傾向があります。調査された古墳は多くありませんが、渡来系氏族と関わりが深いミニチュア炊飯具が多数出土していることから、その多くが渡来系氏族の古墳であったと考えられます。
また、横口式石槨を埋葬施設とする古墳が7基以上あったことも注目されます。横口式石槨とは、棺を納めるだけの空間しかない石槨の前面に羨道や前室が取り付く形態のものです。南河内で盛行し、7世紀中ごろには皇族や上級官人の埋葬施設として採用されるようになります。
田辺古墳群は終末期の群集墳として著名です。2基一対の造墓形態は夫婦の古墳と考えられています。百済からの渡来系氏族である田辺史氏の墓域と考えられ、7世紀前半から末にかけて古墳が造られ、8世紀には火葬墓も造られています。
このように安宿郡では一般に古墳の造営が下火に向かう6世紀末以降に古墳造営のピークを迎えるという特徴があります。集落遺跡も7世紀以降に増加することから、7世紀ごろから人口も増加したと考えられます。
(文責:安村俊史)
飛鳥千塚古墳群分布図 -
近つ飛鳥と安宿郡 みなさんは近つ飛鳥と聞いて、どのような風景を思い浮かべるでしょうか。推古天皇陵や聖徳太子墓のある太子町の風景でしょうか。それとも...(2019年4月22日 文化財課)
近つ飛鳥と安宿郡
みなさんは近つ飛鳥と聞いて、どのような風景を思い浮かべるでしょうか。推古天皇陵や聖徳太子墓のある太子町の風景でしょうか。それとも大阪府立近つ飛鳥博物館やその周辺に広がる一須賀古墳群の風景でしょうか。それでは、どうして「近つ飛鳥」あるいは「河内飛鳥」と呼ばれるのでしょうか。
『古事記』履中天皇の段に、水歯別命(みずはわけのみこと)が難波から大和へ入る際に大坂山口に至り、そこを「近飛鳥」と名付けたとあります。そして、大和で到着した地を「遠飛鳥」と名付けたということです。「遠飛鳥」は奈良の飛鳥のことです。難波からみて近い、遠いということでしょう。水歯別命は、のちに反正天皇になる人物です。
『日本書紀』履中天皇即位前紀には、大坂より倭(大和)に向かう際に「飛鳥山」に至ったとあります。『古事記』も『日本書紀』も、大坂道(穴虫越え)の河内側の入口付近を「飛鳥」と称しています。これらの記述から、「近つ飛鳥」とは、羽曳野市飛鳥周辺のことと考えられます。
「近つ飛鳥」をもう少し広い範囲の名称と考えた場合には、安宿郡を指すと考えるのが妥当でしょう。郡名が「飛鳥」なのですから。それでは、太子町や河南町も近つ飛鳥と呼べるでしょうか。飛鳥より南は石川郡となります。郡を越えて飛鳥の名称を使うことは考えられないでしょう。つまり、近つ飛鳥とは、狭義では羽曳野市飛鳥周辺、広義としては安宿郡のことと考えるべきでしょう。
これに対して、履中天皇のころ、すなわち5世紀ごろには飛鳥の範囲は違っていたかもしれないという意見もあると思います。そのとおりですが、『古事記』や『日本書紀』が編さんされたのは7世紀の終わりから8世紀初めにかけてです。これらを編さんした人たちが近つ飛鳥と聞いて連想するのは、やはり安宿郡のことだったでしょう。一般に考えられている近つ飛鳥のイメージは誤っており、本来は安宿郡を考えるべきでしょう。
(文責:安村俊史)
図:安宿郡の古墳と寺院 -
鳥坂寺(とさかでら)出土の線刻平瓦 歴史資料館の北西に、史跡鳥坂寺跡があります。ここから昭和36年度に出土した平瓦に文字が線刻されていました。瓦が...(2019年4月15日 文化財課)
鳥坂寺(とさかでら)出土の線刻平瓦
歴史資料館の北西に、史跡鳥坂寺跡があります。ここから昭和36年度に出土した平瓦に文字が線刻されていました。瓦が焼かれる前、生乾きの状態で平瓦の凸面に先端の鋭い工具で刻まれています。線刻は次のようなものです。
□□乃五十戸
玉作ア飛鳥評2行目の「玉作ア」は「玉作部」と読めます。「ア」は「部」の右側のおおざとを略して書いたもので、古代にはよくみられます。カタカナの「ア」のような書きかたは、7世紀代によくみられるものです。玉作部の某という人物でしょう。
「飛鳥評」は安宿郡のことです。「評」から7世紀代であることがわかります。「飛鳥戸評」が正しいと思われますが、「飛鳥評」でも通じたのでしょう。「飛鳥戸」は飛鳥戸氏という氏族名に由来すると考えられます。もともと飛鳥氏だったのが、戸籍に編入されることによって飛鳥戸氏となったと考えられますので、飛鳥評でも問題ないでしょう。
問題は1行目です。「五十戸」は「サト」と読み、飛鳥(戸)評の五十戸の名称と考えられます。竹内亮氏は、□□を「志母」と読みました。これでいいとすると、「シモノサト」すなわち8世紀以降の資母郷に相当すると考えられます。線刻文字をどのように読むのかむずかしいところですが、現在のところ、もっとも合理的な読み方だと考えられます。つまり、この線刻は「飛鳥(戸)評志母乃五十戸の玉作部」の某が刻んだのではないかと考えられるのです。
ところで、鳥坂寺は大県郡にあります。安宿郡の資母郷は現在の国分周辺と考えられ、国分周辺で作られた瓦が鳥坂寺に運ばれているようです。鳥坂寺の建立に協力した知識の一員として瓦を寄進したのではないかと考えられています。
(文責:安村俊史)
写真:鳥坂寺跡出土線刻平瓦(大阪府教育委員会所蔵) -
安宿郡(あすかべぐん)の範囲 安宿郡は、柏原市南部と羽曳野市南東部の一部であったと考えられます。具体的には、北は大和川、東は大和との国境、西は石川...(2019年4月8日 文化財課)
安宿郡(あすかべぐん)の範囲
安宿郡は、柏原市南部と羽曳野市南東部の一部であったと考えられます。具体的には、北は大和川、東は大和との国境、西は石川、南は竹内街道周辺の羽曳野市駒ヶ谷、飛鳥まででしょう。
しかし、この範囲が現在は柏原市と羽曳野市に分かれていることから考えると、どうして一つの郡になっていたのかと不思議に思います。柏原市と羽曳野市の市境に、鉢伏山や寺山などの山が存在し、地形的に分断されているからです。実際に駒ヶ谷や飛鳥は竹内街道を通じて石川の対岸にある古市などとの結びつきが強く、江戸時代までに古市郡に編入されています。どうして古代の安宿郡に駒ヶ谷や飛鳥が含まれていたのでしょうか。
それは、道を基準に郡を設定したからだと考えられます。安宿郡の北には大和川に沿って龍田道(竜田道)が東西にのびていました。そして、安宿郡の南には竹内街道が東西にのびていました。この2本の道のあいだに設定されたのが安宿郡だったと考えられます。
龍田道は7世紀初頭に難波から飛鳥への道として整備されました。『日本書紀』推古21年(613)にみえる「難波より京に至る大道を置く」に相当する道だと考えられます。一方の竹内街道は、7世紀中ごろの難波長柄豊碕宮の造営に伴い、宮中軸線を南に延長したいわゆる「難波大道」と、それに直交する正方位の道として整備されたと考えられます。
一般に竹内街道は竹内峠を越えるための道と考えられていますが、『古事記』や『日本書紀』の内容から考えると、大坂道と呼ばれる穴虫越えの道のほうがよく利用されており、大坂道への連絡道として設置されたと考えられます。竹内峠越えも古くからあった道ですが、あくまでも大坂道の裏道として利用されていたようです。同じ7世紀中ごろに設置された正東西にのびる長尾街道は、龍田道への連絡道として設置されたと考えられます。
古代においては、龍田道と大坂道がもっとも重要な道路でした。天武天皇8年(679)に龍田山と大坂山に関が築かれています。この2本の道が重要視されていたことがわかります。重要であった2本の道のあいだの大和・河内の国境部分に設定されたのが安宿郡だったのです。安宿郡が重視されていたことがわかります。安宿郡の範囲がどのように設定されたのか、わかっていただけたことと思います。
(文責:安村俊史)
図:安宿郡の範囲 -
安宿郡(あすかべぐん)とは 柏原市の南東部と羽曳野市の南東部は、古代に安宿郡(あすかべのこおり・あすかべぐん)と呼ばれました。この安宿郡がどのよう...(2019年3月31日 文化財課)
安宿郡(あすかべぐん)とは
柏原市の南東部と羽曳野市の南東部は、古代に安宿郡(あすかべのこおり・あすかべぐん)と呼ばれました。この安宿郡がどのような郡だったのか考えてみたいと思います。
大化の改新(645)の翌年に出された詔によって、国のもとに評(こおり)が設置され、評の下に「サト」が置かれたと考えられています。「サト」は当初「五十戸」と表記され、7世紀末には「里」と表記されるようになりました。五十戸で一つの里が構成されていたので、五十戸もサトと読みました。一戸は一軒の家ではなく、血縁関係にある大家族を中心とするもので、10~30人で一戸を構成していました。
それが大宝令(701)によって、評が郡に、里が郷に改められました。評も郡も「コオリ」、里も郷も「サト」と読みます。これによって、国のもとに郡、郡の下に郷が置かれ、さらにその下に里が置かれることになりました。後に里は廃止され、国-郡-郷の体制となり、この体制が長く続きました。
10世紀前半につくられた『和名類聚抄』には、全国の国・郡・郷がまとめられています。ここに河内国安宿郡がみえ、安宿郡には賀美(かみ)・尾張(おわり)・資母(しも)の三つの郷があったと記されています。また、正倉院文書の天平20年(748)「写書所解」には、安宿郡奈加郷とみえます。奈加郷は『和名類聚抄』にはみえないのですが、賀美が「上」、資母が「下」と考えると、奈加は「中」と考えて間違いないでしょう。そのように考えると、奈加(中)郷が尾張郷に変わったのではないかと考えられます。賀美郷は飛鳥周辺、奈加(尾張)郷は玉手山周辺、資母郷が国分周辺と考えられます。
また、『日本書紀』雄略天皇9年条に、「飛鳥戸郡人、田辺史伯孫」とみえます。交換した馬が埴輪の馬に変わっていたという有名な赤馬伝説の話です。ここにみえる「飛鳥戸郡」は安宿郡のことと考えて間違いないでしょう。そもそも「安宿」を「あすかべ」とは読めませんが、「飛鳥戸」ならば「あすかべ」と読むことができます。もともと飛鳥戸評だったのが、奈良時代には二文字の良い字に改めるようになり、「安宿」という文字を当てることになったのでしょう。
つまり、7世紀中ごろに河内国飛鳥戸評だったのが8世紀に安宿郡に変わり、上・中・下五十戸が賀美・奈加・資母郷へ、そして奈加郷は尾張郷へと変化したのでしょう。
(文責:安村俊史)
写真:安宿郡周辺航空写真(南西から) -
文化庁が文化遺産を活用した地域活性化に係る取組への支援として行っている補助事業「地域文化遺産活性化事業」の説明会を開催します。文化庁からの補助金を希望され...(2019年1月31日 文化財課)
文化庁が文化遺産を活用した地域活性化に係る取組への支援として行っている補助事業「地域文化遺産活性化事業」の説明会を開催します。文化庁からの補助金を希望される団体代表者は、ご出席ください。
補助事業の内容…地域の文化遺産(祭礼等)を活用する上で前提となる、記録作成、後継者養成、用具等整備(だんじり等の補修)といった伝統文化継承のための基盤整備事業。
- と き 平成31年2月23日(土) 午前10時30分~11時30分
- ところ 柏原市立歴史資料館(柏原市高井田1598-1) 3階研修室
- その他 平成32年度以降の補助事業を対象とします。事前申込等は不要です。各団体2名までの出席とします。
- 問合せ 柏原市教育委員会 文化財課 072-976-3430
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源平合戦以来の又兵衛の手柄(2015/3/28) 大坂夏の陣において柏原市域でおこなわれた小松山の戦い、その駆け引きは、慶長二十年(一六一五)五...(2019年1月28日 文化財課)
源平合戦以来の又兵衛の手柄(2015/3/28)
大坂夏の陣において柏原市域でおこなわれた小松山の戦い、その駆け引きは、慶長二十年(一六一五)五月五日に始まりました。『大坂御陣覚書』によると、河内と大和の国境に位置する亀の瀬を背にして戦おうとする豊臣方に対して、徳川方は既に国分に到着しており、徳川方が先手を取る形となりました。続きを読む
小松山の戦いで散った後藤又兵衛の名は?(2015/3/13)
大坂の陣のヒーローと言えば、なんと言っても「真田日本一の兵」と称えられた真田幸村でしょうか。しかし、「幸村」という名を生前に使用した事例は確認できず、「信繁」が正しいことが既に明らかにされています。続きを読む
旧陸軍戦闘機の部品発見?市立健康福祉センター建設に先立つ発掘調査で(2015/3/4)
平成9年6月、柏原市立健康福祉センターの建設に先立つ大県南遺跡の発掘調査で、機械の部品らしき物がいくつか出土した。出土場所が、第2次世界大戦中に建設されたと見られる格納庫(掩体壕)の跡だったことから当時の戦闘機の部品ではないかと推定された。続きを読む
柏原市域に大きな被害 昭和11年(1936)の河内大和地震(2015/1/16)
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柏原市内の駅と鉄道についての雑学を紹介しよう。いわゆるトリビア(trivia=くだらないこと、雑学知識)である。お楽しみいただければ幸いである。続きを読む
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JR関西本線(大和路線)が、柏原市域西部の市街地をほぼ南北に縦断して通っている。このため、市内上市地区などは東西に分断された形だ。こうしたことから、この鉄道の敷設が計画された明治21年(1888)ごろ、路線の変更を願い出るなどの反対運動が起こっていた。続きを読む
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第2次世界大戦前、堅下にアドルフ・ヒトラーが来たことがある!? かつて、こんな誤解があった。 実際に来たのは、ヒトラー・ユーゲントの青少年たちである。続きを読む
多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)-その数奇な運命-(2014/7/10)
かつて、柏原市内で出土した文化財の中に多鈕細文鏡という鏡がある。弥生時代の青銅鏡で、直径は21.7センチある。背面、中心線から少し上に二つの鈕(ちゅう=つまみ)が左右に並んでおり、背面の全体が鋸歯文(きょしもん)と呼ばれる、のこぎりの歯のような形の細線文様で覆われている。続きを読む
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JR関西本線の河内堅上駅~三郷駅間の大和川北岸、大阪府柏原市峠の、通称亀の瀬地区に旧大阪鉄道の亀の瀬隧道(ずいどう:トンネル)がある。 亀の瀬トンネルは、大阪と奈良を結ぶ最初の鉄道として大阪鉄道が敷設した関西本線のトンネンルで、明治25年(1892)に開通した。続きを読む
社会事業の実践者 武田慎治郎(2014/6/25)
かつて、柏原市高井田に武田慎治郎という人がいた。 武田慎治郎は、明治元年(1868)福井県生まれ。警察官として曽根崎署長などを歴任した後、大正2年(1913)、大阪府立修徳館(現・「児童自立支援施設・大阪府立修徳学院」)の館長となった。 続きを読む
宮沢賢治と柏原(2014/1/8)
「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などの童話、「雨ニモマケズ」などの詩で知られる作家・宮沢賢治が、かつて柏原の地を訪れていた。賢治が柏原の地を訪れたのは、大正5年(1916)3月、今から100年近く前のことだ。続きを読む
柏原市域に関係する詩歌、市域内で詠まれた歌など(2012/12/18)
○ 海(わた)の底(そこ) 沖つ白波 竜田山 いつか越ゆらむ 妹(いも)があたり見む
海の底、沖の白波が立つ、竜田山を越えるのはいつの日だろうか、続きを読む
史跡高井田横穴公園内の万葉歌(プレート)(2012/4/14)
柏原市立歴史資料館に隣接して史跡高井田横穴公園がある。この公園は、横穴見学者だけでなく、より多くの人たちが公園を利用し、楽しむことができるよう、四季折々の花の植栽なども含めて整備されている。万葉集の歌を表示したプレートもその一つで、園内西エリアには花をテーマとした万葉歌のプレートが、テーマとなった花の植栽の近くに立てられている。続きを読む
ちょっと昔の柏原(2011/6/1)
柏原市が市政を施行したのは、今から約50年前の昭和33年(1958)10月。昭和30年代を舞台にした映画「3丁目の夕日」の新作が公開されるなど、当時の社会や世相が関心を集めている。
さて、それでは、そのころの郷土・柏原はどんなようすだったのだろう。続きを読む
柏原市の誕生(2011/4/19)
昭和31年(1956)、柏原町と国分町が合併して成立した新しい柏原町は、昭和33年(1958)10月1日、市制を施行。ここに「柏原市」が誕生した。 それから50年余。ここで、改めて柏原市誕生の歴史をひも解いてみることにしよう。それは、昭和史のドラマである。 続きを読む
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