文化・スポーツ
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姫路藩 播磨国姫路藩は、世界遺産姫路城で有名な兵庫県姫路市にあった15万石の藩です。慶長5年(1600)に池田輝政が播磨国に52万石余りで三河吉田...(2018年10月14日 文化財課)
姫路藩
播磨国姫路藩は、世界遺産姫路城で有名な兵庫県姫路市にあった15万石の藩です。慶長5年(1600)に池田輝政が播磨国に52万石余りで三河吉田から入部したことに始まります。藩主は、池田氏、本多氏、松平氏とかわったあと、天和2年(1682)に松平直矩が豊後日田(大分県)へ移され、陸奥福島(福島県)から移った本多忠国が藩主となりました。
忠国が藩主を務めていた元禄16年(1703)に幕府から大和川付け替え工事を命じられ、翌年2月に工事に着手しました。工事現場の監督や警備役、技術者など370人以上を現地に派遣して2月27日から工事を始めました。しかし、3月21日に本多忠国が急死したため、すべての人が姫路に帰り、工事は中断することになりました。忠国の子が幼かったため、本多家は越後村上(新潟県)に移され、付け替え工事も免除となりました。
姫路藩による付け替え工事は、川下から上流に向かっての水盛(みずもり)から始めました。水盛とは、地面の高低差を測る測量のことで、現在は水準測量といいます。水盛を行う一方で、川下より築堤工事に着手したようです。撤退までの1か月足らずのあいだに、遠里小野村まで10町(約1.1km)の工事を進めていましたが、堤防は未完成でした。のちに手伝いに追加された柏原藩が堤防の不足工事を行っています。水盛は付け替え地点に近い志紀郡太田村付近まで進んでいましたが、残りは幕府が引きついでいます。
中家文書に「大和川御用 本多中務大輔殿家来」という史料があります。そこには、大頭・藤江善右衛門、大奉行・服部将監など、57人の役人の役職と名が記され、足軽小頭10人、足軽305人とあり、合計すると372人となります。足軽は現地で人足として働き、これに現地で雇用された人足も加わっていたのでしょう。
補修工事が終わって真っ白になった姫路城には、平日でも入城待ちの長い列がみられます。ほとんどの人が見たこともなかったであろう遠くはなれた大和川の付け替え工事を命じられた藩主や家臣の驚きはどれほどだったでしょう。しかし、幕府の命令であるかぎり、断ることはできません。それが、藩主の急死、工事からの撤退、越後への移封とつづき、忠国とその家臣は大変な思いをしたことでしょう。
(文責:安村俊史)
写真:姫路城 -
工事が早くできた理由・3 工事を早く終えることができた三つめの理由として、工事区間を分割して一斉に工事に着手したことがあげられます。現在の道路や鉄...(2018年10月7日 文化財課)
工事が早くできた理由・3
工事を早く終えることができた三つめの理由として、工事区間を分割して一斉に工事に着手したことがあげられます。現在の道路や鉄道の工事でもよく行われる工区割りという方法です。上流側半分は幕府が担当し、下流側を東から岸和田藩、三田藩、明石藩が分担し、同時に工事を行っています。
その工区内を、さらに1町(109m)ごとに分割していたようです。丹北郡東瓜破村の文書に、「新川御普請南側五拾九番之御丁場」とあるようです(中九兵衛『甚兵衛と大和川』)。付け替え工事に際して、付け替え地点から海まで、1番から131番までの杭が打たれていました。東瓜破村のところには60番杭が打たれていたことがわかっていますので、おそらく59番の丁場とは、59番杭と60番杭の間、長さ1町分のことでしょう。そして、南側とあることから、左岸堤防の築堤工事だったことがわかります。この丁場を長原村の人物が請け負い、大坂釣鐘町の町人が下請けしていることが記されています。前回のコラムで紹介した方法で工事を行っていたことがわかります。
このようにすれば、隣の藩や工区に負けたくないので工事を急ぎます。そして、工事を早く終わらせることができれば、宿泊費や食事代などの出費も抑えられます。請け負った人にとっては、利益が増えるということです。これが、工事が早く進んだ三つめの理由です。
ところで、最初に手伝いを命じられた姫路藩は15万石でした。そのあと手伝いを命じられた三藩は、岸和田藩が5万3千石、三田藩が3万6千石、明石藩が6万石で、合計すると14万9千石となり、姫路藩とほぼ同じ石高となります。これも偶然とは思えません。また、最初は姫路藩に工事を任せるつもりで、工期を3年ほどとみていたようですが、姫路藩の撤退が決まると、すぐに幕府は上流半分を直営で工事し、残りを三藩に分担させるなど、迅速に対応しています。これが早く工事を終わらせることにつながっているのですから、結果的には分担させてよかったのではないでしょうか。
(文責:安村俊史)
図:大和川付け替え工事の設計書(新川普請大積り・中家文書) -
河内六寺とは 『続日本紀』に天平勝宝8歳※(756)2月条に「戊申(つちのえさる)、是日、至河内国、御智識寺南行宮、己酉(つちのととり)、天皇幸知...(2018年9月23日 文化財課)
河内六寺とは
『続日本紀』に天平勝宝8歳※(756)2月条に「戊申(つちのえさる)、是日、至河内国、御智識寺南行宮、己酉(つちのととり)、天皇幸知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等六寺礼仏」という記録が残っています。「天平勝宝8歳2月24日、孝謙天皇が難波宮行幸の際、柏原に立ち寄り、知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂の六寺を参拝した」という内容です。この六つの寺を「河内六寺」と呼んでいますが、この呼称は『続日本紀』にはなく、便宜上総称したものです。いずれも7世紀後半に創建された寺院で、推定地の位置関係から記載順に参拝したとする説が有力です。
※天平勝宝の表記…天平勝宝7年(755)1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められ、これ以後7歳~9歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へと戻している。
孝謙天皇の行幸
756年
2月24日平城宮から難波宮に行幸する途中で智識寺南行宮に立ち寄る
25日 河内六寺に行幸し、礼仏する 26日 行幸の護衛などを務める内舎人を六寺に遣わして、僧侶に誦経させ、寺に施し物をする
28日 大雨の中を智識寺南行宮から難波宮に向かい、東南新宮に入る この間、智識寺南行宮に4泊したことになり、行幸途中に立ち寄ったというよりも、六寺に参拝することが行幸の一つの目的であったと考えられます。
4月15日 帰途に智識寺(南)行宮で宿泊 17日 平城宮へ帰る 5月2日 聖武太政天皇が亡くなる この行幸には、聖武太政天皇と光明皇太后も同行し、「河内離宮に宿泊した」と『万葉集』に記されています。「河内離宮」は智識寺南行宮と考える説が強いのですが、当時河内で最も整備されていた竹原井離宮(柏原市青谷)を指す可能性が高いと考えられます。
体調が優れない聖武太政天皇は竹原井離宮で休み、河内六寺の参拝は控えたかと思われます。ただ、智識寺に対する聖武天皇の思い入れはかなり強かったと思われ、大仏開眼供養が無事に済んだお礼や、自身の体調の快復も願って、智識寺だけには参拝しているかもしれません。
天平12(740)年の2月、難波宮に行幸した聖武天皇は、智識寺の盧舎那仏を拝観したことが東大寺の盧舎那仏造立の機縁となったと、『続日本紀』に記録されています。
また『続日本紀』に記載はありませんが、孝謙天皇は天平勝宝元年(749)10月に智識寺に行幸しています。この2回の行幸時に孝謙天皇が滞在したのが、「茨田宿禰弓束女(まんだのすくねゆつかめ)」の宅と「知識寺南行宮」です。
六寺はどこか
まず孝謙天皇の参拝順について、山本昭氏が『柏原市史』において、智識寺南行宮は智識寺のすぐ南にあたり、そこから北へ智識寺、山下寺、大里寺、三宅寺と参拝し、南へ戻って、家原寺、鳥坂寺と巡拝したとする説を出されました。次に各寺院は、地名等から智識寺が太平寺廃寺、山下寺が大県南廃寺、大里寺が大県廃寺、三宅寺が平野廃寺、家原寺が安堂廃寺、鳥坂寺が高井田廃寺にそれぞれ該当すると考えました。そして、この説を裏付けるように、大県廃寺から「大里寺」、高井田廃寺から「鳥坂寺」と書かれた墨書土器が発見され、山本氏が考えたように『続日本紀』の記述は参拝順に記されていることが有力視されています。
ただ現在でも、三宅寺については十分明らかにできていません。平野廃寺の推定地からは、十数回の調査にも関わらず、古代寺院に関連する遺構・遺物は確認できていません。採集されている最古のものは平安時代の瓦です。『続日本紀』の参拝順では、三宅寺は六寺の最北端にあたりますが、大県廃寺より北には、まとまって瓦を出土する地は知られていません。三宅寺の候補地は、さらに北の八尾市の教興寺や高麗寺跡とする説もあります。あるいは神宮寺廃寺と考える説もあります。三宅寺の位置については、今後に残された課題です。
再度孝謙天皇の足跡をたどると、一行は智識寺南行宮を発ち、北の智識寺にまず参拝、そこから後世に業平道ともよばれる道をたどり、北の山裾にある山下寺、さらに大里寺、三宅寺と巡拝しました。三宅寺から後世の東高野街道を南下すると、家原寺に至ります。さらに南へ進んで鳥坂寺を参拝し、智識寺南行宮へと戻ります。三宅寺を平野廃寺として約5km、高麗寺跡とすると約12kmとなり、いずれにしても、1日で巡拝可能な距離です。
六寺は誰が建てたのか
智識寺はその名称から、仏教に帰依する知識によって建立されたことは間違いないでしょう。それでは他の5か寺はいったい誰が建立したのでしょうか。
一般に、古代寺院においては官寺、智識寺以外は氏寺とされます。氏寺とは、氏族が繁栄を祈って建立した寺院のことです。智識寺以外の河内六寺も氏寺とすると、各寺院を建立したのは何氏なのでしょうか。
氏寺とすると
山下寺を大県主、大里寺を大里史、三宅寺を三宅史、家原寺を家原連もしくは茨田連、鳥坂寺を鳥取造などの氏寺とする説があります。また『柏原市史』では、大里寺を大県郡の大領※の氏寺に比定しています。しかし大県郡で有力な氏族と考えられるのは、自宅を行宮として提供した茨田宿禰、史料にしばしばみられる下村主ぐらいで、古代寺院を建立するほどの氏族が存在したか疑問です。しかも各寺院が400~500mの間隔で建立されていたとすると、建立氏族の基盤も400~500m四方しかなく、果たしてその程度で天皇が参拝するほどの寺院が建立できたのでしょうか。
※大領…律令制で、郡司の長官。大国の領主。この中で、家原寺の建立に茨田氏が、鳥坂寺の建立に鳥取氏が関わっている可能性は高いと考えられます。家原寺については、医王寺旧蔵の大般若経の奥書に家原里(邑)の知識の名が連ねられ、牟久史2人ほか、伯太造、牧田忌寸、物部、下村主とさまざまな氏族が家原里に居住していたことを示しています。ここには、茨田氏・家原氏の名前はありません。
鳥坂寺は、鳥取氏の祖である天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)などを祀る天湯川田神社の境内に塔跡が存在することから、鳥取氏との深い関係が考えられます。しかし、鳥取氏の本拠は鳥取郷(柏原市青谷周辺)であるのに、どうして鳥坂郷に寺院を建立し、寺院名も鳥坂寺としたのでしょうか。鳥坂寺跡出土の平瓦に「玉作阝飛鳥評」(たまつくりべあすかのこおり)の線刻がみられます。この瓦を大和川対岸の安宿郡(あすかべのこおり)に居住する玉作部からもたらされたと考えると、鳥坂寺も鳥取氏だけで建立されたのではないとも考えられます。
知識が建てた可能性
この地域に有力な氏族はいませんでしたが、智識寺の建立や河内大橋の改修にみられるように結束力の固い知識集団が存在していました。これらから智識寺以外の寺院も、知識によって建立されたのではないかと考えられます。有力な知識が、家原寺の茨田氏であり、鳥坂寺の鳥取氏だったのでしょう。
また大県郡とその周辺の知識の援助を受けて建立されたものと考えれば、狭い範囲に密集して寺院が建立されている理由が理解できます。その中心的存在が智識寺であり、そのように建てられた六寺であるからこそ、孝謙天皇も参拝したのではないでしょうか。
河内六寺が知識によって建立されたとする説や、氏寺の成立は平安時代以降であるとする研究は既にあります。寺院を氏寺と決めつけて建立氏族を探すだけでなく、さまざまな角度から寺院の造営について検討する必要があるのではないでしょうか。
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工事が早くできた理由・2 工事を早く終えることができた二つめの理由として、大勢の人を雇用できる体制があったことをあげておきたいと思います。付け替え...(2018年9月23日 文化財課)
工事が早くできた理由・2
工事を早く終えることができた二つめの理由として、大勢の人を雇用できる体制があったことをあげておきたいと思います。付け替え工事に従事した延べ人数は280万人余りと考えられます。1日平均にすると1万2千人余りとなります。こんなにたくさんの人をどのようにして集め、管理していたのでしょうか。
工事に必要な多数の人足を用意することを幕府や藩の役人から請け負ったのは、近隣の経済的に豊かな農民だったようです。その農民は顔見知りの土木業を請け負う町人に人集めを依頼したようです。彼らは「請負人(うけおいにん)」あるいは「用聞(ようきき)」などとよばれていました。その請負人が必要な人数を集めて仕事の段取りをしたのです。このような経済システムが、300年以上も前に整っていたことに驚きます。大阪の西成に行けば必要な作業員を集める手配使とよばれる人がいましたが、もっと大規模に人を集めることが求められたのです。このような形で人を集めることができれば、地元の農民にもお金が入り、大坂の経済活性化にも役立ったことでしょう。
大和川付け替え工事では、地元の農民が強制的に動員されたと書かれた本があります。また、各藩がそれぞれの地元から数百人の農民を連れてきたという話も聞きます。しかし、実際には幕府や藩が金銭を支払って人集めを依頼し、その結果集まった人々が工事に従事したのです。幕府や藩は、彼らの仕事を指示し、管理するのが役割だったのです。
人足には、1日1匁5分程度の日当が払われたようです。今の価値にすると5千円程度でしょうか。彼らは地元の農家に宿泊して、泊り込みで働きました。農家には、火の用心、けんか・口論の禁止、賭博などの禁止などが厳しく言い渡されていました。
このように、毎日1万人以上もの人を集めることができる大坂の経済システムが存在したことも、工事を早く終えることができた理由の一つです。人が集まらなければ、いくら早く終わらせようと思ってもできないのですから。
(文責:安村俊史)
図:新大和川計画地の水盛の図(地形高下之事・中家文書) -
工事が早くできた理由・1 長さ14km余り、川幅180m、堤防と左岸堤防に平行して掘られた落堀川を合わせると幅260mもの大きな川を造る工事が、わ...(2018年9月16日 文化財課)
工事が早くできた理由・1
長さ14km余り、川幅180m、堤防と左岸堤防に平行して掘られた落堀川を合わせると幅260mもの大きな川を造る工事が、わずか8か月で終わっています。しかも、姫路藩の撤退などによる中断を考えると、実質は7か月ほどとなります。どうして、こんなに早く工事を終えることができたのでしょうか。そこにはさまざまな理由が考えられますが、ここでは、大きく三つの理由を取り上げてみたいと思います。まず一つめは、綿密な測量と、それに基づく設計によって、無駄なく工事が行われたことです。
工事に着手する前に、綿密な水盛(みずもり)を行っています。水盛とは地面の高さを調べる測量のことで、現在では水準測量とよばれています。かなり誤差を含んでいるとは思いますが、1分(0.3cm)の単位まで測量しています。その測量結果に基づいて、できるだけ川底を掘らないように新川の傾斜を決めています。掘るというのは、とてもたいへんな作業なので、できるだけ掘りたくなかったのです。
そして、測量結果に基づいて、工事にともなう掘削土量と堤防に必要な盛土量をそれぞれ計算し、その数値ができるだけ等しくなるようにしています。土が余ればどこかに処分しなければなりませんし、足らなければどこかで掘削して運んでこなければなりません。掘削土をできるだけ近くの堤防盛土として利用するのがもっとも効率的な工法となります。だから掘削土と盛土の量をできるだけ等しくしたかったのです。
このように、綿密な測量と正確な計算によって、しっかりとした設計をおこない、無駄のないように進めたことが、工事を早く終えることができた理由の一つでした。300年以上も前ならば測量などせずに適当にやったのではないかと思う人もあるでしょうが、当時の測量技術や計算力は、すばらしいものがあったのです。
なお、関心のある方は、コラム「知恵と技術」の2~5もご覧ください。
・コラム「知恵と技術」(2)(3)(4)(5)(文責:安村俊史)
図:お手伝い大名の分担(『ジュニア版 甚兵衛と大和川』より) -
大和川の付け替え工事 元禄16年(1703)10月28日、大和川の付け替えが正式に発表され、普請奉行として大久保甚兵衛忠香と伏見主水為信、助役とし...(2018年9月7日 文化財課)
大和川の付け替え工事
元禄16年(1703)10月28日、大和川の付け替えが正式に発表され、普請奉行として大久保甚兵衛忠香と伏見主水為信、助役として姫路藩主の本多中務大輔忠国が任命されました。これによって、15万石の姫路藩が付け替え工事を担当することになったのです。これだけの大工事を一藩で行わなければならないことに姫路藩は驚いたでしょうが、幕府の命令を断れるはずもなく、粛々と準備を進めたようです。
翌元禄17年(1704)2月上旬に大坂に着いた大久保甚兵衛と伏見主水は、16日に摂津国住吉郡喜連村に普請役所を設置し、18日から20日にかけて川下から新川筋のぼう(※片へんに旁)示【範囲を明らかにすること】を行い、姫路藩は川下から水盛(みずもり、高さの測量)を始め、27日に工事に着手しました。
工事は進み、海から10町(約1.1km)の遠里小野村付近まで進んだ3月21日、姫路藩主の本多忠国が急死しました。これによって姫路藩の家臣は全員引き上げ、工事は中断することになりました。しかし、幕府は工事継続の準備を進め、3月30日に付け替え予定地の船橋村から幕府が直営で工事を再開しました。そして、次の日4月1日には、新たな手伝い大名として、和泉国岸和田藩主の岡部長泰5万3千石、摂津国三田藩主の九鬼隆久3万6千石、播磨国明石藩主の松平直常6万石の3藩を命じました。3藩は、川辺から浅香山谷口までの69町を三等分した23町(約2.5km)をそれぞれ担当し、4月末から一斉に着工しました。
さらに、6月28日には丹波国柏原(かいばら)藩主の織田信休2万石、大和国高取藩主の植村家敬(いえゆき)2万5百石を手伝いに追加し、堤の芝貼り、姫路藩普請場の堤増し、十三間川の掘足し、西除川の切違え、旧大和川の築留などが命じられました。
このように、上流半分は幕府が、下流と周辺工事を手伝い大名が実施し、同時に着工したため工事は順調に進み、10月13日には新川切通し、つまり新大和川に水を流すことによって、つけかえ工事はわずか8か月で完了したのです。
(文責:安村俊史)
図:新大和川(川違新川図・中家文書) -
平成30年8月13日、国際かんがい排水委員会による第69回国際執行理事会において「大和川分水築留掛かり(やまとがわぶんすいつきどめかかり)」が世界かんが...(2018年8月15日 文化財課)
平成30年8月13日、国際かんがい排水委員会による第69回国際執行理事会において「大和川分水築留掛かり(やまとがわぶんすいつきどめかかり)」が世界かんがい施設遺産に登録されました。
世界かんがい施設遺産とは、かんがいに対する理解醸成とかんがい施設の適切な保全を目的とした国際かんがい排水委員会が2014年に創設した制度で、建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録・表彰しています。
日本では2017年までに31の施設が登録され、今回新たに登録された4施設のなかに「大和川分水築留掛かり」が選ばれました。「大和川分水築留掛かり」は、柏原市上市の築留二番樋・三番樋から八尾市・東大阪市へ流れる長瀬川と玉串川のことです。この2つの川は、1704年の大和川付け替え後、旧大和川の跡に造られた用水路で、この用水が流域の75か村の田畑(約4000ヘクタール)に利用されてきました。75か村によって用水路を維持管理する「築留樋組」が組織され、これが現在の築留土地改良区へと続いています。
世界かんがい施設遺産に登録された理由には、大和川付け替えという歴史的な背景や、75か村で共同管理されてきた事実、流域の発展に果たしてきた役割などが高く評価されたからでしょう。築留は大和川付け替え地点として知られていましたが、これからは貴重なかんがい施設のある場所としても注目されるのではないでしょうか。
歴史資料館では、今回の登録を記念して関連するパネルを展示しています。現地とあわせて、ぜひ当館にもお越しください。
現在の大和川から長瀬川・玉串川へ取水する築留二番樋【登録有形文化財】
築留・青地樋用水組合村々絵図(小山家文書、左から玉串川、長瀬川、平野川)
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国豊橋と新大和橋 明治になると、道路や鉄道などの交通も次第に整備されるようになりました。大阪から奈良へと向かう亀瀬越奈良街道の高井田村と国分村のあ...(2018年8月7日 文化財課)
国豊橋と新大和橋
明治になると、道路や鉄道などの交通も次第に整備されるようになりました。大阪から奈良へと向かう亀瀬越奈良街道の高井田村と国分村のあいだには、大和川を渡るために船による渡しがありました。しかし、小船では多くの荷物を運ぶことができません。天候にも左右され、増水時には何日も渡れないこともありました。人々が、橋を望んだのも当然のことだったのです。ここに、明治3年(1870)に架けられた橋を国豊橋といいます。国豊橋は、現在も国道25号が大和川を渡る橋となっています。
国豊橋が架けられた当時は、長さ98間(178m)、幅1間(1.8m)、片手摺の橋でした。ここを荷車や馬が通ったのですが、危ない橋だったことでしょう。建設に要した総費用は787両余りで、このうち460両余りは街道周辺の村々からの寄付でまかないました。柏原近辺だけでなく、河内一円、奈良からも寄付が集まりました。それだけ架橋に期待する人たちがいたということです。しかし、それでも300両余りが足りません。その不足分は明治5年から9年まで、一人3文の通行料を徴収して補いました。
新大和橋は、東高野街道が大和川を渡るところに架けられました。現在の近鉄道明寺線の横、柏原南口から対岸の船橋への橋です。この橋をなぜ新大和橋というのでしょうか。それでは、大和橋はどこにあるのでしょうか。実は大和橋は大和川の河口近くの紀州街道に架かる橋です。新大和橋を建設する際に、少しでも費用を安くおさえるために、当時架け替え工事が行われていた大和橋の工事中の仮設橋の材木を安価に購入して架けられたのが新大和橋だったのです。だから「新」なのです。
新大和橋は明治7年(1874)2月に、400両余りで建設されました。やはり近隣から寄付を募り、不足分は数名の発起人が自腹をきって払ったということです。長さ108間(196m)、幅1間半(2.7m)、両手摺付きの橋で、国豊橋よりも立派な橋でした。
明治になると荷車や牛馬の利用が多くなり、大和川への架橋は人々が待ち望んでいたものだったのです。
(文責:安村俊史)
写真:国豊橋架橋に関する史料(北西尾家文書) -
太陽暦の採用 太陽の動きを基準とする暦を太陽暦といいます。現在の暦は太陽暦ですが、日本では、明治5年(1872)まで天保暦とよばれる太陰太陽暦を使...(2018年7月30日 文化財課)
太陽暦の採用
太陽の動きを基準とする暦を太陽暦といいます。現在の暦は太陽暦ですが、日本では、明治5年(1872)まで天保暦とよばれる太陰太陽暦を使用していました。太陰太陽暦は、月の満ち欠けの周期(約29.5日)の12倍で1年を区分しますが、太陽の1年の周期と比べると、約11日不足することになります。そこで、季節のずれを修正するために、19年に7回の閏月を設けます。一般には陰暦や旧暦とよばれています。
日本では、すでに16世紀末には太陽暦が伝わっていましたが、蘭学の普及によって、江戸時代後期に太陽暦への関心が高まり、明治になると、欧米と同じ太陽暦の採用を主張する人もあらわれました。
明治政府は、太陽暦の採用には積極的ではありませんでしたが、急遽明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、太陽暦に変更しました。財政の窮乏に苦しむ政府は、役人への12月分の給与を節約できるという考えがあったようです。また、太陰太陽暦では明治6年に閏月があるので13か月になりますが、太陽暦では12か月です。役人の給料など必要な経費を節減するために太陽暦を採用することに急遽踏み切ったようです。しかし、人々の生活は混乱しました。そして、年中行事や農作業の暦として旧暦が残される地方が多かったのは、みなさんもご存知のことと思います。
柏原村の柏元家文書に、明治5年(1872)11月15日付けの太政官布告が残されています。そこには、太陽暦への変更とともに、神武天皇即位をもって紀元と定めるため11月25日に祭典を執り行うことが通達されています。翌明治6年より、2月11日を神武天皇即位の日として紀元節と定められています。明治政府の独断による政策が、次々と採用されていったことがわかります。
(文責:安村俊史)
写真:太陽暦に関する史料(柏元家文書) -
神仏分離令 日本では奈良時代から神仏習合として、神道と仏教は混然としていました。仏像を祀っている神社や、神社境内に神宮寺があるところもたくさんあり...(2018年7月24日 文化財課)
神仏分離令
日本では奈良時代から神仏習合として、神道と仏教は混然としていました。仏像を祀っている神社や、神社境内に神宮寺があるところもたくさんありました。神と仏を分けることを神仏分離といい、江戸時代にも儒教の合理主義に基づいて、いくつかの藩で神社と寺を分ける試みがなされていましたが、明治維新によって、本格的に神仏分離が推し進められることになりました。
それまでの仏教を国教とする政策を否定し、新政府は「神道国教化政策」のもと、慶応4年(明治元年・1868)3月に神仏習合を禁止し、神社と寺を分離しました。慶応4年(1868)3月17日の「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」にはじまり、神社から仏教色を排除することを命じた明治初年の一連の措置を「神仏分離令」といいます。
全国の神社に「別当」「社僧」と呼ばれる僧侶がいましたが、新政府は彼らに還俗を命じ、神主や社人として神道を奉じるように命じました。また、1.神の名に仏教的用語を使用している神社を調べ上げ、2.仏像を神体としている神社の仏像を廃棄し、3.神社に所蔵する仏教的な什物の排除などを命じました。この命令は、着実に実行されるところが多かったようです。
これらの命令が、仏教は不浄であるという過激な考えを生み出し、寺や仏像を破壊するなどの廃仏毀釈が全国に広がりました。政府は寺院や仏教を否定するものではないという触れを出しましたが、多くの人たちに仏教を否定する考えが浸透したようで、このときに全国の3分の2の寺が破却されています。柏原でも多くの寺が破却されました。その際に、寺院が所蔵する貴重な仏像や宝物が多数散逸してしまいました。
柏原村では神社と寺は明確に分離されており、問題はないとする調査への回答が残されています。
(文責:安村俊史)
写真:神仏分離令に関する史料(柏元家文書)