文化・スポーツ
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柏原船の運航と今町の成立 代官末吉孫左衛門長方(~1639)の尽力によって、寛永13年(1636)から平野川での船の運航が幕府に認められました。江...(2018年4月5日 文化財課)
柏原船の運航と今町の成立
代官末吉孫左衛門長方(~1639)の尽力によって、寛永13年(1636)から平野川での船の運航が幕府に認められました。江戸時代には、幕府の許可がなければ、勝手に船を運航することはできなかったのです。平野川は旧大和川の支流のひとつで、柏原付近では了意川と呼ばれています。久宝寺村の了意が船を通すために整備したので了意川と呼ばれるようになったということですが、くわしいことはわかっていません。平野川を運航するこの船は、「柏原船」と呼ばれました。
柏原船は、柏原村だけでなく近隣の村々の有力者が集まって出資し、営業が始められました。営業に参加する人々は、「新町(現在の古町)」の西に新しい町を開き、ここに店を構えました。現在の柏原警察署の北側付近です。南北に道を通し、その両側に町屋が並びました。新しくできた「新町」に対して、もとの新町は「古新町」と呼ばれるようになりました。
末吉孫左衛門長方のあとを継いで代官となった長明(1609~1653)は、柏原村の復興を急ぐため、大坂の商人を柏原船の営業に参加させることにしました。寛永17年(1640)のことです。これに応じた14人の大坂商人は、先に開かれた「新町」の北に「坂井町」と呼ばれる町を開きました。坂井町はJR柏原駅から西へのびる大正通りの南にあたります。新町の南北道を北へのばし、やはりその両側に町屋が並びました。
ところが、坂井町での営業がようやく軌道に乗りはじめた正保3年(1646)に、洪水で破損した堤防の復旧工事が終わり、奈良街道も整備されたため、新町と坂井町は街道沿いに移転することになりました。これが現在まで続く「今町」です。今町は奈良街道沿いにあり、すぐ西側に柏原船が通る了意川があるため、商売をするには最適の地でした。ここに、今町の歴史が始まります。
(文責:安村俊史)
図:柏原船(『和漢船用集』の柏原船に着色) -
柏原村の洪水 ここでは、今町が成立することになった地元の事情を見ておきたいと思います。「河州志紀郡柏原村荒地開新町取立大坂より船致上下候様子書」(...(2018年4月1日 文化財課)
柏原村の洪水
ここでは、今町が成立することになった地元の事情を見ておきたいと思います。「河州志紀郡柏原村荒地開新町取立大坂より船致上下候様子書」(通称「柏原船由緒書」、貞享5年・1688、三田家文書)によると、元和6年(1620)に大和川の左岸堤防が切れて、柏原村に大きな被害をもたらしたということです。災害からの復興は、いつの時代にも大きな出費を伴うものです。その復興のために、志紀郡の代官であった平野の末吉孫左衛門長方(~1639)は、平野川に船を通すことを考えました。平野川は、柏原村から平野を通り大坂へと流れる旧大和川の流れの一つです。船で荷物を運んで、その利益で村を復興させようとしたのです。しかし、幕府の許可がおりず、復興も十分に進まないまま、寛永10年(1633)に再び大和川の水が柏原村を襲いました。このときには、左岸堤防が300間(540m)にわたって切れ、柏原村だけで35人が死亡、45軒の家が流されたという記録が残っています。そこで、孫左衛門は再び幕府に船の営業を求め、ようやく許可がおりることになりました。
そのころの柏原村は、現在の柏原市と八尾市の市境付近、柏原市本郷3丁目の国道25号線本郷橋の西側一帯にありましたが、大きな被害を受けたため、400mほど南西の現在の本郷2丁目の地に移転することになりました。もと村のあった地には「古屋敷」の小字名が残り、洪水の砂が堆積したままで、江戸時代を通じて水田はつくれなかったようです。この地における発掘調査で、その洪水の跡を確認しています。
一方、大和川左岸堤防に沿っては、古くから奈良街道が通じており、このころには街道沿いに商人が集住し、新町と呼ばれていました。現在の古町です。このあたりは、洪水被害はそれほどひどくなかったようです。
(文責:安村俊史)
図:柏原村耕地絵図トレース・天保14年(1843)【柏元家文書】 -
三田家は武家だった 三田家の初代・三田浄久は、柏原船の営業に参加するために寛永17年(1640)に大坂伏見の呉服町から柏原村に移り住むことになりま...(2018年3月28日 文化財課)
三田家は武家だった
三田家の初代・三田浄久は、柏原船の営業に参加するために寛永17年(1640)に大坂伏見の呉服町から柏原村に移り住むことになりました。三田浄久は、「さんだきよひさ」と読み、一般には「じょうきゅう」と呼ばれています。その浄久の父は水野庄左衛門といい、武士でした。庄左衛門の父は水野如雲といい、福島正則に仕えていました。それ以前の水野家の由緒は残念ながらわかっておらず、話は水野如雲から始めることになります。
如雲は広島城主であった福島正則に仕えていました。正則から如雲に宛てた文書が残っており、その書き方から、正則が如雲に対して相当な敬意を払っていたことがわかります。どうやら客分のような扱いを受けていたようです。もしかすると、水野家は尾張あたりで織田信長と関わるような家筋だったのかもしれません。
如雲の長男が庄左衛門で、三男に庄兵衛という人物がいました。大坂夏の陣の際、庄左衛門は豊臣方として大坂城へ、庄兵衛は徳川方として正則のもとに残ることになりました。その結果、庄左衛門は大坂城で戦死、その子浄久は家臣に助けられて母方の実家があった堺へ逃れ、母方の三田姓を名乗ることになりました。浄久8歳のことです。その後、浄久は大文字屋七左衛門の名で大坂に出て商売に成功し、柏原船の営業に参加することになりました。
一方、庄兵衛は福島正則が元和5年(1619)に城普請などが原因で改易されたのちに、紀伊徳川家に仕えることになりました。しかし、嗣子がなく、万治2年(1659)に水野家は断絶することになりました。そのため、庄兵衛のもとに残されていた古文書が浄久に届けられ、その一部が現在まで保管されてきたことから、以上のような三田家の歴史がわかるのです。これらの史料は、三田家の出自や由来を明らかにする「水野家文書」として、平成27年(2015)に柏原市有形文化財に指定されました。
(文責:安村俊史)
写真:三田家所蔵水野家文書 -
今町と三田家・寺田家 江戸時代の宝永元年(1704)に、大和川は柏原から西へと付け替えられました。それまでの大和川は、柏原から北北西へと流れ、その...(2018年3月25日 文化財課)
今町と三田家・寺田家
江戸時代の宝永元年(1704)に、大和川は柏原から西へと付け替えられました。それまでの大和川は、柏原から北北西へと流れ、その先の二俣で久宝寺川と玉櫛川に分かれていました。旧大和川の左岸に位置した柏原村は、明治まで河内国志紀郡柏原村でした。現在の柏原市本郷、大正、今町、古町に広がる大きな村で、文政11年(1828)の「柏原村明細帳」によると、村高は1172石余り、家数は257軒、人口は1,343人でした。
大和川の付け替えによって、志紀郡は南北に分断されることになりましたが、その後も、大和川の南にあたる北条村や船橋村との交流は盛んだったようです。柏原村の中心は現在の本郷で、ここに多数の家屋が集まっていました。本郷とは、村の中心という意味です。これに対して少し離れた小さな集落は枝郷と呼ばれました。柏原村の枝郷として今町と古町があり、今町と古町は奈良街道沿いに続く商人のまちでした。とりわけ、今町は平野川を往来した柏原船の運航に携わる村外の人々が移り住むことによって成立したまちで、柏原村の経済、文化を牽引し、その後の柏原村、そして現在の柏原市の発展に大きな役割を果たすことになりました。
江戸時代の奈良街道は、四天王寺付近から奈良へと続く重要な道で、古代の渋河道を継承する道でした。その後に整備された国道25号線とルートがほぼ重なっているため、江戸時代の景観が残っていないところが多いのですが、柏原市内では今町から古町にかけてと、国分本町付近には比較的良好な町並みが残っています。今町と古町の中間に位置するJR柏原駅前付近は駅前再開発ですっかり町並みが変わってしまいましたが、今町は今も旧奈良街道に沿った町屋が並ぶ景観が残っています。そして、その中心にあるのが三田家住宅と寺田家住宅です。三田家住宅は国の重要文化財に、寺田家住宅は国の登録文化財になっています。ここでは、江戸時代の三田家・寺田家の歴史を中心に、今町の発展について紹介してみたいと思います。
(文責:安村俊史)
写真:今町の町並み -
夾紵棺の今後 安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部なのかどうか。まず、聖徳太子の夾紵棺の実物を確認することが必要となります。現在のところ、叡福寺には...(2018年3月20日 文化財課)
夾紵棺の今後
安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部なのかどうか。まず、聖徳太子の夾紵棺の実物を確認することが必要となります。現在のところ、叡福寺には夾紵棺の破片さえ伝わっていないようです。明治12年に叡福寺北古墳で採集された夾紵棺は、そのまま石室の中にあるのでしょうか、それとも宮内庁が所蔵しているのでしょうか。これが確認できれば、明らかにできます。また、安福寺と叡福寺の関係についても究明していかなければなりません。史料に夾紵棺の授受について記したものがないかどうか、探索する必要があります。
次に、夾紵棺の年代です。猪熊兼勝氏は、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺であるとしたうえで、これは7世紀後半に改葬された際に新しく造られたものだとされています。石室の年代が7世紀後半とされることとも整合すると考えておられます。
しかし、叡福寺北古墳の石室の年代は、7世紀前半ではないかと思います。河南町のシシヨツカ古墳は6世紀末の横口式石槨墳で、花崗岩の切石を使用しています。来目皇子墓と考えられる羽曳野市塚穴古墳が花崗岩切石による横穴式石室です。来目皇子は聖徳太子の実の弟で、新羅遠征の最中の603年に筑紫で亡くなっています。その兄の聖徳太子墓が7世紀前半に花崗岩切石による石室であったとすると、花崗岩の切石技術が継続的に採用されていたと理解できます。むしろ、来目皇子墓や聖徳太子墓の年代を7世紀後半に下げるほうが不自然でしょう。
そして、夾紵棺も7世紀前半と考えられないでしょうか。シシヨツカ古墳から漆塗籠棺が出土しており、このころに漆塗りの技術が日本に入っているのは間違いありません。もちろん、渡来人によってもたらされたのでしょう。その際に、最高の技術で聖徳太子の夾紵棺がつくられたと考えてはどうでしょう。そして、夾紵技術が伝わった当初につくられたのが聖徳太子の棺で、その後簡略されていくなかで、牽牛子塚や阿武山古墳の麻を使用した夾紵棺がつくられ、やがて高松塚古墳にみられるような漆塗木棺への簡略化を考えたほうがいいのではないでしょうか。
いずれにしても、研究課題は尽きません。まず、この夾紵棺を保存していくことが第一です。これからしばらくは、当館の特別収蔵庫で保管していくことになっています。まずは、この機会に実物を見ていただいて、あれこれと思いをめぐらせてみてください。
(文責:安村俊史)
図:夾紵棺推定復元図(柏原市立歴史資料館『群集墳から火葬墓へ』より) -
安福寺と叡福寺 安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部である可能性があることを指摘しましたが、いくら近いとはいえ、安福寺と叡福寺とは直線距離で5kmも...(2018年3月12日 文化財課)
安福寺と叡福寺
安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部である可能性があることを指摘しましたが、いくら近いとはいえ、安福寺と叡福寺とは直線距離で5kmも離れています。まして叡福寺北古墳は、聖徳太子の墓として叡福寺によって管理されていたはずです。その棺が安福寺に持ち込まれることがあったのでしょうか。次に、安福寺と叡福寺との関係について考えてみたいと思います。
叡福寺の南に西方院という寺院があります。叡福寺の塔頭の一つで、もとは西方尼院と称する尼寺でした。本尊の阿弥陀仏は聖徳太子の作と伝えられています。この寺院は、聖徳太子の乳母であった月益(つきます)、日益(ひます)、玉照姫(たまてるひめ)という三姫の創建とされます。この尼院を安福寺の珂憶が支援していたことが史料に見えます。西方院の扁額も珂憶の筆によるものです。
また、安福寺は叡福寺とも関係をもっていたことが史料に見えます。延宝3年(1675)に、珂憶が二粒の仏舎利を聖徳太子の御廟に寄付したということです。その際の叡福寺からの礼状が残っており、仏舎利を末永く守っていくと記されています。どうやら珂憶は聖徳太子を深く敬っていたようで、そのために西方院や叡福寺に寄進をしていたようです。
明治12年(1879)の『聖徳太子磯長墓實檢記』によると、夾紵棺の破片が約2斗(36リットル)あったということです。このころには夾紵棺は粉砕し、かなり小片になっていたと考えられます。もし、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部だとすると、明治よりもかなり以前に持ち出されたと考えざるをえません。もしかすると、延宝3年に珂憶が仏舎利を寄付した際に夾紵棺の一部をいただいたのかもしれません。あるいは聖徳太子を信仰する珂憶が、太子の棺の一部を授かりたくて仏舎利を寄付したのかもしれません。なぜなら、その仏舎利を太子の御廟すなわち叡福寺北古墳に納めたと記されているのです。仏舎利は塔などに納めるもので、古墳に納めるのはおかしな話です。延宝3年ごろならば、夾紵棺がある程度原形を留めていたことも考えられます。この仏舎利寄進と夾紵棺が結びつかないだろうかと考えています。今後の新たな史料に期待したいと思います。
(文責:安村俊史)
図a:叡福寺(『河内名所図会』より)
図b:西方尼院(『河内名所図会』より) -
聖徳太子の棺か 安福寺周辺では、終末期古墳は発見されていません。まして夾紵棺が皇族クラスしか使用できなかったと考えると、候補になるのは、用明陵や推...(2018年3月4日 文化財課)
聖徳太子の棺か
安福寺周辺では、終末期古墳は発見されていません。まして夾紵棺が皇族クラスしか使用できなかったと考えると、候補になるのは、用明陵や推古陵、叡福寺北古墳などのある磯長谷の古墳群です。叡福寺北古墳、すなわち聖徳太子がその候補の一つとなるのです。
安福寺の夾紵棺は、長さ94cm、幅47.5cm、厚さ3cmあります。棺の長さが約1mでは短すぎるので、棺の小口(側面の短辺)部分だと考えられます。夾紵棺で大きさがわかっているのは阿武山古墳のもののみで、ほぼ完全な形で残っていました。棺蓋は長さ203cm、幅68cm、高さ9cm、棺身は長さ197cm、幅62cm、高さ52cm、厚さ2.3cmで20枚以上の麻を重ねていました。安福寺の夾紵棺が小口とすると、阿武山古墳の棺幅62cmよりもかなり大きくなります。しかし、叡福寺北古墳には聖徳太子の棺を安置するための棺台と呼ばれる台があり、その棺台の大きさが長さ242cm、幅109.5cmなので、幅100cmの棺ならばうまく納まりそうです。
阿武山古墳の棺台は長さ231cm、幅82cmです。これと夾紵棺との比率を求めると、長さが85.3%、幅が75.6%となります。安福寺の夾紵棺と聖徳太子棺台幅との比率は91.3%となり、阿部山古墳の比率よりやや大きくなります。夾紵棺を出土しているほかの古墳の棺台の大きさはどうでしょうか。牽牛子塚古墳の棺台は、長さ183cm、幅78cmです。天武天皇の棺台は長さ210cm、幅75cmです。叡福寺北古墳の奥の棺台が長さ197cm、幅91cm。手前左の棺台が長さ216cm、幅91cmです。以上のように、安福寺の夾紵棺が棺の小口部分で間違いないならば、この大きさの棺を安置できる棺台は、叡福寺北古墳の手前向かって右側の棺台、つまり聖徳太子の棺台とされているもの以外に考えられないのです。ここから、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺だったのではないかと考えられているのです。
聖徳太子の棺台の長さ242cmの90%が棺の長さとすると、約218cmとなります。棺台と安福寺夾紵棺から推定すると、聖徳太子の棺身の大きさは、長さ約218m、幅約100cm、高さ47.5cmと復元できます。夾紵棺としては、かなり大きなものであったことになります。現在の破片の重さが約10kgなので、夾紵棺全体では100kg前後の重量だったと考えられます。そして、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の小口部分であった可能性が大きくなるのです。ただし、これ以外にも夾紵棺をもつ古墳が存在すると考えられることなど、未確定の要素を含んでいることをご理解ください。
(文責:安村俊史)
図:阿武山古墳の横口式石槨復元図
(高槻市立今城塚古代歴史館『阿武山古墳と牽牛子塚』より) -
叡福寺北古墳(聖徳太子墓) 安福寺の夾紵棺は、聖徳太子(厩戸皇子)の棺ではないかという説があります。そこで、聖徳太子の古墳とされる叡福寺北古墳につ...(2018年2月26日 文化財課)
叡福寺北古墳(聖徳太子墓)
安福寺の夾紵棺は、聖徳太子(厩戸皇子)の棺ではないかという説があります。そこで、聖徳太子の古墳とされる叡福寺北古墳についてみておきたいと思います。まず、叡福寺は南河内郡太子町にある寺院で、上太子(かみのたいし)とも称されます。寺伝によると、推古天皇が太子の墓を守護するために建立したといい、聖武天皇が伽藍を整備したと伝えられています。しかし、実際に伽藍が整備されたのは、もう少し後のことと考えられています。この叡福寺の伽藍北側に聖徳太子墓とされる古墳があります。古墳は、叡福寺北古墳あるいは上城古墳とも呼ばれ、宮内庁によって聖徳太子の磯長墓に治定されています。ここでは、過去の記録や、宮内庁によって実施されている墳丘測量や墳丘の調査結果からみていきたいと思います。
墳丘は三段築成の円墳で、東西長約53m、南北長約43mの楕円形平面と考えられます。横穴式石室は、明治12年(1879)に内部の様子を記録した『聖徳太子磯長墓實檢記』がまとめられたのちに封鎖されて、現在は立ち入ることはできません。しかし、過去には自由に内部に入れる時期もあったようです。『實檢記』によると、石室は丁寧に加工された花崗岩切石によって構築された「岩屋山式石室」と考えられます。「岩屋山式石室」は、明日香村の岩屋山古墳を標識とする、花崗岩切石積みの横穴式石室のことです。記録によると、玄室の長さが5.45m、幅3m、高さ3mで、羨道は長さ19.2m、幅1.8mとなる大規模な石室のようです。岩屋山古墳と構造はほぼ一緒ですが、規模は叡福寺北古墳のほうが大きくなります。
玄室内には、奥壁に沿って1基、玄室の手前側壁に沿って2基の棺台があり、奥が聖徳太子の母の穴穂部間人皇女、手前向かって右側が聖徳太子、左側が妃の膳菩岐々美郎女の棺台とされています。
聖徳太子の没年は、推古30年(622)と考えられますが、岩屋山式石室の年代を7世紀後半と考える研究者が多く、そのころに改葬されたのではないかと考える研究者もいます。しかし、聖徳太子の没年に近い7世紀前半でいいのではないかと思っています。
(文責:安村俊史)
図:叡福寺北古墳横穴式石室の図(宮内庁陵墓課『書陵部紀要』第60号より)
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安福寺の宝物 安福寺には、尾張徳川家から贈られたものなど多数の宝物が所蔵されています。しかし、これまでに十分な調査が行われていないため、まだまだ隠...(2018年2月20日 文化財課)
安福寺の宝物
安福寺には、尾張徳川家から贈られたものなど多数の宝物が所蔵されています。しかし、これまでに十分な調査が行われていないため、まだまだ隠れた宝物が眠っているようです。その中から、指定文化財を中心に、いくつかの宝物を紹介したいと思います。
まず、山水蒔絵硯箱、牡丹蒔絵硯箱、菩提樹蒔絵香筥の3点が国の重要文化財に指定されています。3点とも徳川光友から寄進されたものです。いずれも工芸上の一品で、現在は大阪市立美術館に寄託されています。
境内にある割竹形石棺蓋も国重要文化財に指定されています。古墳時代前期の割竹形石棺の蓋で、現在は天地が逆に置かれています。玉手山3号墳から出土したとされ、手水鉢として使用されていました。この石材は、讃岐(香川県)の鷲ノ山で産出する凝灰岩です。讃岐には刳抜式石棺が多く、この石棺も讃岐で造られたものが当地に運ばれてきたと考えられます。蓋の周囲に直弧文が刻まれています。直弧文とは直線と弧線からなる複雑な文様で、魔除けなどの効果があったとされる文様です。
参道の両側崖面には、大阪府指定史跡の安福寺横穴群がみられます。横穴は、崖面に掘りこまれた洞窟を墓として利用したもので、古墳時代の埋葬形態の一つです。これまでに40基の横穴が確認されています。6世紀中ごろから7世紀初めに営まれたものです。
それから、夾紵棺が柏原市有形文化財に指定されています。
指定文化財は以上ですが、これ以外にも注目される文化財が多数あります。まず、本堂は珂憶建と呼ばれる様式で、寛文年間(1670年代)に建てられたものです。尾張徳川家の廟も注目されます。1700年代初めに立てられた3基の宝篋印塔があります。これらは玉手山7号墳の前方部に建てられており、後円部には大坂夏の陣による戦没者供養のための宝篋印塔が建てられています。これは、珂憶によって建立されたとされます。さらに、朝鮮系の釣鐘や尾張徳川家から寄進された数々の品物、多数の経典や文献史料なども貴重な文化財です。
(文責:安村俊史)
写真:菩提樹蒔絵香筥(『柏原市史』第1巻より) -
安福寺の歴史 夾紵棺の話はしばらくおいて、ここでは夾紵棺を所蔵している安福寺という寺院について紹介したいと思います。安福寺は、柏原市玉手にある浄土...(2018年2月12日 文化財課)
安福寺の歴史
夾紵棺の話はしばらくおいて、ここでは夾紵棺を所蔵している安福寺という寺院について紹介したいと思います。安福寺は、柏原市玉手にある浄土宗知恩院末寺の寺院で、阿弥陀如来を本尊とします。奈良時代に行基が開基し、その後荒れていた寺院を寛文10年(1670、寛文6年とする記録もある。)に珂憶(かおく)という僧侶が復興したと伝えられています。
周辺の発掘調査では、これまでに古代の瓦が出土していません。また、行基が開基した寺院の中に安福寺の名は見えず、行基が柏原市周辺で活動した痕跡も認められないことから、行基が開基したということはもちろん、古代から続く寺院の可能性も小さいと考えられます。現在確認できるもっとも古い瓦は鎌倉時代のものです。建長年間(1249~56)に親鸞の門弟・慶西が開いたと記す記録もあり、これならば瓦の年代にも一致します。
珂憶は、寛永12年(1635)12月1日、若狭国の里見義勝の子として生まれました。寛永18年(1641)、江戸深川霊巌寺の珂山の弟子となり、正保2年(1645)には珂碩の弟子となりました。珂碩は江戸に浄真寺を開基し、珂憶もそこで修行を続けましたが、万治2年(1658)に諸国修練の旅に出ます。そして、寛文10年(もしくは6年)に安福寺を復興しました。珂憶は、珂碩から江戸浄真寺の二代目住職を任されますが、安福寺に残りながら浄真寺の堂舎整備などに尽力したようです。
珂憶は安福寺の堂舎の整備も行いますが、それには徳川御三家の一つ尾張徳川家の支援が大きかったようです。尾張名古屋藩の二代徳川光友は、珂憶の学徳を尊敬し、さまざまな宝物や寺田を寄進しました。このような経済的支援とともに、尾張徳川家の威光も安福寺の復興に大きく貢献したことでしょう。
徳川光友の墓塔も安福寺にあります。境内墓地の奥、玉手山7号墳の前方部に玉垣を巡らせた3基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。その中央が光友、向かって左が側室の松寿院(勘解由小路)、右が三男(実際は長男)の松平義昌(梁川藩)の石塔です。尾張徳川家からは、明治になるまで浄財が届けられていたということです。
(文責:安村俊史)
図:玉手山安福寺(『河内名所図会』より)