文化・スポーツ
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長原遺跡の調査より 1994年、右岸にある笠守樋の撤去に伴って、大阪市平野区川辺でも調査が行われています。笠守樋は、新大和川によって水脈が断たれた...(2016年10月12日 文化財課)
長原遺跡の調査より
1994年、右岸にある笠守樋の撤去に伴って、大阪市平野区川辺でも調査が行われています。笠守樋は、新大和川によって水脈が断たれた旧東除川の流域に用水を引くために埋設された取水樋です。
つけかえ当時の堤防の規模は、北法面・南法面ともにのちに大きく改変されているため、明らかにできません。基底部幅(根置)は17m以上、高さは3m強と考えられ、上面(馬踏)は平らにならず、カマボコ状に丸くなっていたと推定されています。しかし、堤防上を人馬が往来していたことを考えれば、当初は平坦な馬踏があったのではないかと思います。それが、のちに荒らされたり、土が流れたりして不整形になったのではないかと考えられます。
高さが設計より2m以上低いのですが、その分は川床を掘り下げていたのではないかと考えられます。計画では、川辺より東では川床を掘らずに両岸に堤防を築くことになっており、川辺から西では川床を掘り下げて堤防を造らない計画になっています。調査地は、ちょうどその変換点にあたり、川床を2mほど掘り下げ、高さ3mの堤防を築いて合計5mの高さを確保したのだと思われます。八尾南遺跡よりも堤防基底部の高さが1m余り高いことからも考えても、川床の掘り下げが行われていたと考えるべきでしょう。
堤防の盛土は、ほとんどが砂で、粘土はみられません。盛土はほぼ水平になるように積み上げられており、八尾南遺跡での盛土の方法に似ています。周辺には東除川の洪水に伴う砂が広がっていたと考えられ、掘削土にこの砂が多く含まれ、それを堤防の盛土として利用したためでしょう。
ところで、長原遺跡では堤防に大きな穴がいくつも掘られていたことがわかっています。何のための穴かわからないのですが、堤防は各村が定期的に見廻り、崩れた箇所などがあればすぐに奉行所に報告され、補修されていました。よって、大きな穴が掘られるなどということは理解しがたいことです。報告では近世の穴かとされていますが、幕末か明治の規制が緩やかになって以降のものかもしれません。
(文責:安村俊史)
図:長原遺跡堤防断面
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小山平塚遺跡の調査より 1988年に藤井寺市小山の左岸堤防で、小山雨水ポンプ場建設に伴う発掘調査が実施されています。この調査は、大和川堤防の発掘調...(2016年9月29日 文化財課)
小山平塚遺跡の調査より
1988年に藤井寺市小山の左岸堤防で、小山雨水ポンプ場建設に伴う発掘調査が実施されています。この調査は、大和川堤防の発掘調査としては最初のもので、断面だけでなく一部では平面調査も実施されています。
堤防断面の観察によって、均整のとれた台形断面をなすつけかえ当時の堤防が確認されました。堤防の基底部幅(根置)が21.5m、上面幅(馬踏)が5.4m、高さ3.6mで、設計よりも基底部で2m、高さで0.9m小さいことがわかりました。
また、堤防基底部の両側に沿って、堤防に平行する木杭が列をなして打ち込まれていました。直径10~15cm、高さ2m前後の大きい杭です。堤防の南側の杭列と北側の杭列との間隔は23.4m、すなわち設計の根置き幅に一致しています。おそらく、設計に基づいて堤防幅を示す杭が打たれて盛土が行われたのですが、設計よりもやや小さい堤防ができあがってしまったのでしょう。高さも設計より低いことを考えると、完成後に盛土が圧縮されて小さくなっていることも考慮する必要があるかもしれません。
小山平塚遺跡の堤防は、良質の粘土を積み上げて築かれており、調査時には「鋼土(はがねつち)」を使用した強固な堤防であったと評価されました。そして、つけかえに伴う堤防は強固に造られていたとされました。しかし、その後のほかの地点での調査によって、これが普遍的なものではなかったことがわかりました。小山周辺は台地の先端付近にあたり、良質な粘土を地盤としています。落堀川の掘削によって掘り出された、この良質な粘土を堤防の盛土に使用しただけのようです。盛土が南から順に積み上げられていることからも、落堀川の掘削土を近いところから順に積み上げていったことがわかります。積み上げた土の上面が水平になっていないことから、築堤途中での叩き締めが行われておらず、堤防を強固にする意図がなかったことがわかります。
このほかに、堤防と15~20°の角度で下流方向にのびる杭列が3列確認されています。これは、堤防に当たる水の流れを弱くするための「杭出し水制」の痕跡と考えられます。近世の絵図にも、この付近に杭出し水制があったことがわかっています。堤防を守るための工夫のひとつです。
(文責:安村俊史)
写真:小山平塚遺跡堤防断面(藤井寺市教育委員会提供)
図:小山平塚遺跡堤防断面
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船橋遺跡の調査より 1997年に、藤井寺市北条町で左岸堤防を断ち割って断面調査が実施されています。これは、水はけの悪い北条地区の雨水を排水するため...(2016年9月19日 文化財課)
船橋遺跡の調査より
1997年に、藤井寺市北条町で左岸堤防を断ち割って断面調査が実施されています。これは、水はけの悪い北条地区の雨水を排水するために、雨水ポンプ場を設置する工事に伴う調査でした。北条地区は、新大和川が造られてから、左岸堤防があるために雨水がうまく排水されず、滞水することが多くなっていたのです。新大和川建設に伴う迷惑が今でも続いているのです。左岸での洪水の増加は、つけかえ反対嘆願書にも反対理由としてとりあげられていました。
調査の結果、つけかえ当時の堤防が、美しい台形に造られていることが確認されました。つけかえ当時の堤防は、基底部幅(根置)が約19m、上面の幅(馬踏)が約5m、高さが約3.6mでした。設計では根置13間(23.5m)、馬踏3間(5.4m)、高2.5間(4.5m)となっていますので、根置で4.5m、馬踏はほとんどかわりませんが、高さは0.9m低いことがわかります。長年の土圧などでつけかえ当時よりも堤防が若干小さくなっていると考えられますが、当初から設計よりもやや小さく造られていたのではないかと考えられます。
積み上げられた土は砂質土が多く、南側から順に、小さな山を築くことを繰り返すように積み上げられています。南側が高くなっている理由は、左岸堤防に沿って設けられた落堀川の掘削に伴う土砂を積み上げたためと考えられます。その後、堤防は3回にわたって拡張されています。まず、北側(川側)へ拡張し、高さも1m高くしています。これは、宝永5年(1708)に落堀川の川底を掘り下げて、その土で大和川の堤防をかさ上げしたという記録に対応するのでしょう。
その後、再び北側へ1m、高さも1.4mほど拡張されています。これは、享保元年(1716)に付近一帯を襲った洪水で運ばれてきた土砂を大和川の堤防に積み上げたという記録に対応するものと考えられます。この2回の拡張は、いずれも粒子の粗い砂を積み上げており、洪水によって運ばれてきた砂を積み上げたものと考えて間違いないでしょう。土砂の搬出と堤防のかさ上げという一石二鳥の方法ですが、砂を積み上げた堤防は、強度の弱いものとなり、あまり好ましいものではありません。
(文責:安村俊史)
写真:船橋遺跡堤防断面(藤井寺市教育委員会提供)図:船橋遺跡堤防断面
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「川違新川普請大積り」 大和川のつけかえ運動を中心になって進めた中甚兵衛の残した史料が、中甚兵衛十代目の中九兵衛氏より当館に寄贈され、現在は当館...(2016年9月13日 文化財課)
「川違新川普請大積り」
大和川のつけかえ運動を中心になって進めた中甚兵衛の残した史料が、中甚兵衛十代目の中九兵衛氏より当館に寄贈され、現在は当館で所蔵しています。その中に「川違新川普請大積り(かわたがえしんかわふしんおおつもり)」と「大和川新川之大積り」があります。これは、大和川つけかえ工事の設計書です。「川違新川普請大積り」には、工事区間とその間の河床の掘削土量や堤防の盛土量などが記されています。そのために必要な人足の数や費用も積算していますので、今の見積書を兼ねたものとなっています。綿密な計算に基づく設計書に、当時の技術や知識の高さを感じます。
設計では、新大和川の長さが7.980間(約14.5km)、敷地380町8反(約380ha)、掘削土量221,250坪(約130万㎥)、堤盛土量201,320坪(約119万㎥)、人足2,445,655人、費用は銀3,668貫482匁5分(金換算で約61,000両)となっています。実際の工事は、変更された部分もあり、金71,500両を要しています。設計段階よりも工事費はふくらんでいます。
ここには、堤防の大きさが北堤(右岸堤防)で根置15間(27.2m)、馬踏3間(5.4m)、高さ3間(5.4m)、南堤(左岸堤防)では根置13間(23.5m)、馬踏3間(5.4m)、高さ2.5間(4.5m)となっています。根置(ねおき)とは堤防の基底部のこと、馬踏(ばふみ)とは堤防の上面のことです。
右岸堤防のほうが大きくなっている理由は、この付近では北に向かって地形が緩やかに下がっており、北側の右岸堤防への水当たりが強くなるためと考えられます。それとともに、もし右岸堤防が切れたり、水が堤防を越えたりすると、河内平野が淀川まで一面水につかってしまい、大坂市中でも大きな被害がでると考えられます。左岸堤防が切れても、左岸に沿った数百mの土地に水が滞るだけで、被害を小さくすることができます。左岸に暮らす人々にとっては迷惑な話ですが、被害の軽減と大坂市中を守るという考えが幕府にあったのは間違いないと思います。
それでは、この設計どおりに工事が行われたのでしょうか。実際の発掘調査成果をみていきたいと思います。
※1間(けん)は6尺(しゃく)、約1.8mです。1坪(つぼ)は1間×1間×1間で、約5.9㎥です。
(文責:安村俊史)
写真 「川違新川普請大積り」 -
八尾南遺跡の調査より 2006年、八尾市若林町で大和川から取水するための三箇用水樋の撤去に伴って、右岸堤防の調査が実施されました。やはりつけかえ当...(2016年8月28日 文化財課)
八尾南遺跡の調査より
2006年、八尾市若林町で大和川から取水するための三箇用水樋の撤去に伴って、右岸堤防の調査が実施されました。やはりつけかえ当時の堤防が確認され、基底部幅(根置)26m、上面幅(馬踏)5.4m、高さ5.4mの規模であることがわかりました。基底部幅が設計よりも1.2mほど短いことを除けば、上面幅・高さともに設計どおりの規模です。
盛土のほとんどが粘土であり、よく見ると粘土は20cm×12~18cmのブロック状のかたまりで積み上げられていることがわかりました。これは鋤(すき、今のスコップ)を踏みこんで粘土を切り出したときの1回の単位だと考えられます。どこかで規則正しく粘土を掘り下げて、これを堤防の盛土に使用していたと推定されます。おそらく、このブロック状のかたまりをモッコにいくつか入れて運んだのでしょう。ブロックの角が丸みをおびているのは、そのためだと考えられます。
なお堤防盛土の下寄りには耕作土や洪水に伴うと考えられる砂が多くみられ、上方には灰色の締まった粘土が多くみられます。これは、調査地周辺の瓜破台地の掘り下げに伴って、当初は台地表面の耕作土や洪水砂などが積み上げられ、徐々に台地を構成する粘土を掘削して、その土を積み上げていったためと考えられます。盛土は北側がやや高いものの、ほぼ水平に積み上げられており、藤井寺市の2箇所の調査とは積み上げ方が異なっているようですが、その理由はよくわかりません。堤防を強くするために、できるだけ水平に積み上げようとしていたのかもしれません。
つけかえ当時の堤防直下には、真っ黒の耕作土がみられます。水田の土でしょうか。北寄りには島畑かと思える盛り上がりもみられます。島畑とは、洪水などに伴う砂などを一箇所に高く積み上げ、その上を畑として利用し、低いところを水田として利用する方法で、河内平野で広くみられました。島畑では、綿の栽培が盛んでした。堤防を造るときに、耕作土を取り除いたり整地することなく盛土の積み上げが行われていたことがわかります。耕作土が厚いことから考えると、稲や綿が植わったままだったかもしれません。
(文責:安村俊史)
図:八尾南遺跡堤防断面
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その他の古墳 玉手山古墳群には、100mクラスの前方後円墳よりもやや規模の小さい60~80mクラスの前方後円墳がみられます。また、さらに規模の小さ...(2016年7月21日 文化財課)
その他の古墳
玉手山古墳群には、100mクラスの前方後円墳よりもやや規模の小さい60~80mクラスの前方後円墳がみられます。また、さらに規模の小さい円墳も数基あったようです。これらの古墳の中から、内容がわかっている古墳を紹介しておきたいと思います。
2号墳は1号墳の南にあり、墳丘全体が玉手地区の墓地となっています。現状では前方後方墳のようにも見えますが、前方後円墳です。全長は80m前後と推定されます。かつて後円部の西斜面から石棺が出土したという地元の人の目撃談があります。
4号墳は3号墳の南西にあり、全長50~60mの前方後円墳と考えられますが、開発によって消滅してしまいました。埋葬施設は粘土槨で、組合式の木棺を粘土で薄く覆った構造だったようです。玉手山古墳群では竪穴式石室を埋葬施設とするものが大半ですが、粘土槨となる唯一の例です。副葬品は鉄刀剣、鉄鏃、銅鏃、漆塗りの盾などが出土しています。また、前方部前面付近で箱形石棺と埴輪棺が確認されています。
5号墳は全長75mの前方後円墳ですが、開発によって消滅しています。後円部の中心に竪穴式石室があり、その西に粘土槨、前方部にも二基の粘土槨がありました。副葬品として、竪穴式石室から巴形銅器、鉄鏃、銅鏃など、粘土槨からは石釧などが出土しています。
6号墳は全長69mの前方後円墳ですが、やはり開発によって消滅しています。後円部には中央とその東に二基の竪穴式石室があり、東石室は市立玉手山公園内の7号墳の南に移設されています。中央の竪穴式石室から画文帯神獣鏡、小札革綴冑などが出土しています。東石室からは内行花文鏡などが出土しています。
8号墳は全長80m前後の前方後円墳と考えられますが、よくわかっていません。
10号墳は北玉山古墳とも呼ばれ、西名阪自動車道の建設によって調査後に破壊されました。全長は51mで、後円部に竪穴式石室、前方部に粘土槨がありました。玉手山古墳群ではもっとも年代の下る古墳の一つと考えられます。
また、安福寺の境内には割竹形石棺の蓋が保存されています。玉手山3号墳から出土したと伝えられ、香川県の鷲ノ山の凝灰岩を刳り抜いて造られています。周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線から成る複雑な線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。
(文責:安村俊史)
安福寺割竹形石棺
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幕末の一揆 幕末の大きな社会変動は、一農村である国分村にも少なからぬ影響を与えたようです。村の有力者は、海岸警備や長州出兵などに伴って、幕府に多額...(2016年6月10日 文化財課)
幕末の一揆
幕末の大きな社会変動は、一農村である国分村にも少なからぬ影響を与えたようです。村の有力者は、海岸警備や長州出兵などに伴って、幕府に多額の献金を行っていました。それによって、苗字を名乗ることを許された人もいたようです。一方、村人は物価の高騰に生活が脅かされていました。そして、慶応2年(1866)に、河内で最後の一揆といわれる騒動がおこりました。米価の高騰に困る村人たちが、村の米屋を次々と襲ったのです。
5月16日の夜、大和川の堤で早太鼓を叩いて30~40人の村人が集まってきました。集まった村人は、米屋四郎右衛門、久助、利七、栄吉、定七の5軒の米屋を次々と襲って乱暴をはたらきました。その間に、酒造業を営んでいた米屋順之助宅(北西尾家)から酒樽も持ちだしていました。その後、西光寺・西法寺の釣鐘を鳴らして村人を集め、家へ帰るように説得する村役人にもまったく応じませんでした。
翌17日は明け方から西光寺へ村人が集まり、反別五斗ずつの米を与えること、十月まで一人一日四合の米を半値で売ること、六升の年貢を四升にすること、これを承知しなければ、竹槍で村役人の家を壊すと訴えたため、村役人も承知せざるを得ず、村人を家に帰して騒ぎは一端治まりました。
これを聞いた代官らは、騒動をおこした者たちを厳しく取り締まることにし、22日に番人ら約200人を動員して村人10人ほどを召し捕えました。しかし、これに怒った村人らは、逆に竹槍を持って番人らを追いかけまわし、捕えた者たちを解放させました。
しかし、23日の夜に郡山藩などに応援を求めて1000人以上によって騒動は鎮圧されました。その結果、130人ほどを召し捕り、うち9人は引き立てられて行ったようです。これによって、騒動は終結しました。
幕末には各地で一揆が続発しましたが、ここ国分村でも大きな騒動があったのです。『多羅尾様御支配 当村一起乱妨一件荒増控』には、その経過が記録されています。米価の高騰に困る村人、そしてそのために竹槍で武装する村人、幕末の大きな混乱の中に、国分村の人たちも呑み込まれていったようです。
企画展「江戸時代の国分村」では、江戸時代の国分村をさまざまな面から紹介しています。地形模型なども展示していますので、ぜひご覧ください。
(文責:安村俊史)
『当村一起乱妨一件荒増控』
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立教館の創立 国分村出身の柘植常煕(本名卓馬、葛城とも)が中心となって開いた私塾が立教館です。常煕は、文化元年(1804)に国分村で生まれ、幼少か...(2016年6月8日 文化財課)
立教館の創立
国分村出身の柘植常煕(本名卓馬、葛城とも)が中心となって開いた私塾が立教館です。常煕は、文化元年(1804)に国分村で生まれ、幼少から優秀で大坂懐徳堂の中井碩果に学び、その後頼山陽のもとで学びました。しかし、家業である医師を継ぐために京の医家小石元瑞のもとで学び、文政13年(1830)、26歳のときに国分村に帰って医業に専念することになりました。頼山陽は、常煕の才能を惜しんで学問をつづけるように説得したようですが、常煕は家業を継ぐために村に帰ったのです。
常煕は、国分村の有力者らの財政的援助を受けて、村に私塾をつくることにしました。そして、古市の高屋城にあった江見定四郎の別荘を買い取り、天保12年(1841)に村の風戸にあった明円寺の境内に学舎を新築して立教館を創設しました。その後狭くなったため、文久3年(1863)に新町の東に移転して新学舎が建築され、元治元年(1864)に完成しました。
その立教館の増改築や運営に関わる史料が多数残されています。文久3年の『立教館新造記録』には、増改築にともなう大工の人数や竹木の購入、近隣からの手伝いなどが日付ごとに記録されていいます。元治元年の『日雇附込帳』には、元治元年7月から翌年2月までの毎日の手伝いの人数と名前が記録されています。同じ元治元年の『諸色買物帳』には、道具や食料などの買物が購入先別に記録されています。
立教館での教育方針を書かれた「立教館記」などをみると、儒学教育を基本に「治世之才」を育成することを目的としていたことがわかります。儒学とともに、漢詩や漢文の教育も行われ、道徳的な側面の強い教育だったようです。
その後、建物の大破や移転などのため経営に行き詰まったときもあったようですが、多いときには60~70人もがここで学んだといいます。村内だけでなく、村外からの通いや寄塾生も多かったようです。
明治になると、学校への転換を図るために嘆願をくりかえし、その結果、明治4年(1871)に堺県によって認可されて「国分村小学校立教館」となりました。そして、明治6年(1873)にニ十五番小学校となり、現在の柏原市立国分小学校へとつづいています。
立教館の建物は、大阪府の旧規則により府史跡となり、移設を繰り返しましたが、現在も関西福祉科学大学の校内に保存されています。
(文責:安村俊史)
『立教館新造記録』ほか
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洪水との戦い 田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受け...(2016年6月6日 文化財課)
洪水との戦い
田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受けないようにしました。さらに、この堤の外側(川側)に、もう1本の堤を築いて二重堤とし、強固なものにしていました。2本の堤の間には、畑も開かれました。
この川側の堤は、その裾に杭を打って堤が崩れないようにするとともに、川の流れに対して鈍角になるように多数の杭を打っていました。これを「杭出し水制」といい、堤を守るために水の流れを緩やかにしたり、流れる方向を変えたりするものでした。このように、杭などによって堤を守る施設を水制といいます。
ところが、寛政4年(1792)の出水によって川側の堤が2箇所で破損し、それ以降、堤の復旧と維持にかなり苦労したことが史料によってわかります。寛政7年(1795)に堤奉行に提出された絵図が、三枚一組で残っています。堤が被害を受ける前の安永10年(1781)、破損した直後の寛政4年、治水工事後の寛政7年の3枚です。寛政4年の堤破損後、菱牛(菱枠)を設置し、川の中央を掘り下げて水の流れを変えています。菱牛とは、丸太を四角錐状に組み上げたもので、これを川の中に置いて水の流れを変えました。牛は水制の一つとして関東などでよく見られる方法ですが、大和川でも使用されていたことが、この一連の絵図で確認できました。この菱牛を7組2列に置いて、堤を守ろうとしたようです。
ところが、この対策はあまり効果がなかったようです。寛政7年の絵図では、菱牛を迂回して水の流れがもとに戻り、堤が完全に破壊されたことがわかります。水は本堤である柳原堤に迫っています。柳原堤が決壊すると、再び大きな被害が生じることになります。そこで、何とか修理してほしいと願いでたものです。
その結果、治水工事が行われたことが寛政8年の絵図によってわかります。この絵図によると、菱牛は41基に増え、多数の杭を打って治水工事を実施したようです。しかし、堤を復旧することはあきらめたようです。
これらの絵図によって、寛政4年の出水による被害の状況と、その前後の治水対策のようすがわかります。ほかでは見られない菱牛の設置など、国分村の人々がこの地の堤、そして水田を守るために、とても苦労をし、膨大な費用を費やしていたことがわかります。くわしくは、当館の館報27号で紹介していますので、ご参照ください。
(文責:安村俊史)
寛政4年、7年の絵図
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新町と国分船 田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤など...(2016年5月30日 文化財課)
新町と国分船
田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤などと呼ばれました。それまでも堤はあったのですが、大きなものではなかったようです。そして、堤の南側には水はけの悪い水田が広がっていました。奈良街道は、この堤の上を通っていましたが、広い道幅がとれず、洪水で道が崩れることもあったと考えられます。しっかりした堤を築いたことによって、堤の南側を埋め立て、そこに奈良街道を移して街道の両側に建物を建築しました。それまでの村は東の台地上に広がっていましたが、これによって村は西へと長くのび、この地は新町と呼ばれるようになりました。新町は、街道に面する町場として、さまざまな商売を営む人たちが住みつき、その後の国分村の発展に大きな役割を果たすことになりました。
新町を開くとともに、国分船の運航も開始されました。国分船は、寛永16年(1639)に28艘で始められ、正保元年(1644)に35艘に増えました。大和川を大坂の京橋まで、上流は亀の瀬まで、また石川を遡って富田林まで運行していました。大坂からは干鰯などの肥料などを運び、大坂へは綿などを運びました。
国分船は、旧大和川を運行する剣先船仲間に属し、古くからの古剣先船221艘に含まれます。剣先船は、舳先が剣のように尖った平底の川船でした。長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m)で、十六駄(2160kg)積みでした。普通は6尺で1間ですが、ここでは5尺で1間と数えます。宝永元年(1704)の大和川付け替え後は、大坂から南へ下る十三間川を通って大和川河口に入り、明治まで営業を続けていました。
国分船の船着場は、現在の国豊橋のすぐ上流に設けられました。大和川上流の亀の瀬には魚梁荷場(やなにば)という船着場があり、ここで荷揚げされた荷物は、陸路で峠を越えて大和に入り、再び船に積み込まれて大和各地へ送られました。魚梁荷場には龍王社(浜神)という祠があり、寛政3年(1791)に剣先船仲間が奉納した石灯籠が残っています。
田輪樋・風戸堤の築造、国分船の運航などは、国分村の有力者によるものですが、ときの領主の稲垣重綱の理解や支援も大きかったようです。東条墓地に「小禹廟」と呼ばれる石塔があります。宝暦3年(1753)5月に、稲垣重綱の百年忌に際して国分村の船持仲間が建立した石塔です。国分村の人々は、この石塔を「小禹廟」と呼び、稲垣重綱の功績を治水事業によって中国の夏王朝を創始したといわれる禹になぞらえて称えました。
(文責:安村俊史)
龍王社の石灯籠