文化財課
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業務内容
- 文化財の調査及び保存に関すること。
- 指定文化財の管理及び指導に関すること。
- 文化財の愛護の推進啓発に関すること。
- 歴史資料館に関すること。
新着情報一覧
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天和3年(1683)の5回目の付け替え検分の結果、河村瑞賢の意見を取り入れて淀川河口を中心とした工事を実施することになりました。工事は貞享元年(1684...(2022年2月25日 文化財課)
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付け替え不要を強調していた河村瑞賢は、元禄12年(1699)に工事を終え、江戸に帰って間もなく亡くなりました。このころ万年長十郎が大坂の堤奉行に着任して...(2022年2月25日 文化財課)
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前回紹介した天和3年4月18日付けの「川違迷惑之御訴訟」に、推進派の非法行為を訴えた一文があります。深野池・新開池を役人が検分した際に、その2~3日前か...(2022年2月25日 文化財課)
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天和3年(1683)2月から閏5月にかけて、幕府役人らによる畿内一円の大規模な巡見が実施されました。稲葉石見守正休、大岡備前守清重、彦坂壱岐守重紹の幕府...(2022年2月25日 文化財課)
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天和3年(1683)の付け替え検分に際して、4月23日付けの「乍恐御訴訟申上候」が志紀郡太田村(現八尾市)の柏原家文書に残されています。それは、4月21...(2022年2月25日 文化財課)
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延宝4年(1676)の検分に対して、新川筋29か村から「乍恐御訴訟」という付け替え反対の嘆願書が提出されました。訴えの内容は多方面に及びますが、その要約...(2022年2月25日 文化財課)
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大和川の付け替えを求める運動がいつごろから始まったのか、確かなことはわかっていません。しかしながら、丹北郡城蓮寺村(現松原市)の「新大和川堀割由来書上帳...(2022年2月25日 文化財課)
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万治3年(1660)の最初の付け替え検分のあと、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)、延宝4年(1676)と、ほぼ5年ごとに2~4回目の付け替え...(2022年2月25日 文化財課)
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柏原市立歴史資料館では、毎年秋季企画展として、大和川の付け替えをテーマにした展示を実施しています。これは、大阪府内の小学4年生の学習内容に合わせた展示で...(2022年2月25日 文化財課)
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大和川つけかえと中甚兵衛 ここまで、大和川付け替えと中甚兵衛の関係について考えてきました。一般に紹介されているように、甚兵衛が付け替え工事を行った...(2022年2月25日 文化財課)
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甚兵衛の足跡を訪ねて それでは、中甚兵衛の足跡をたどってみましょう。まず、秋に柏原市立歴史資料館にお越しください。十代目の中九兵衛氏から寄贈された...(2022年2月25日 文化財課)
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贈位と記念碑の建立 甚兵衛が亡くなって170年余り、明治37年(1904)に大和川付け替え200周年を記念して、今米村に甚兵衛の功績を顕彰する記念...(2022年2月25日 文化財課)
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晩年の中甚兵衛 宝永元年(1704)の大和川付け替えのとき、甚兵衛は66歳になっていました。江戸時代のことなので、年齢はもちろん数え年です。それで...(2022年2月25日 文化財課)
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付け替え後の新田開発 旧大和川の一つ玉櫛川は、菱江川と吉田川に分かれ、東を北へ流れる吉田川は、その先で深野池に流れ込んでいました。大和川の付け替え...(2022年2月25日 文化財課)
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付け替え工事への参加 元禄13年(1700)、14年(1701)にも、今米村周辺で大洪水があったようです。14年には、今米村で米の収穫がなかったと...(2022年2月25日 文化財課)
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孤立する甚兵衛 貞享4年(1687)の1月ごろに出されたと考えられる「乍恐御訴訟」が、現存する唯一の付け替え嘆願書になります。そこには、「先年より...(2022年2月25日 文化財課)
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つけかえ運動への参加 万治3年(1660)に、幕府によって初めての大和川付け替え検分が行われました。前回のコラムで、大和川の付け替え運動は万治2年...(2022年2月25日 文化財課)
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甚兵衛の前半生 中甚兵衛は、寛永16年(1639)に河内国河内郡今米村に生まれました。父の名を九兵衛などと書かれたものもありますが、現存する史料か...(2022年2月25日 文化財課)
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中甚兵衛とは? 中甚兵衛は河内国河内郡今米村(現在の東大阪市今米1丁目)の生まれで、今米村の庄屋を務めながら、大和川の付け替え運動を中心となって...(2022年2月25日 文化財課)
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大和川は、人々や物資の往来に古くから利用されていたと考えられますが、亀の瀬を船で通行するのは困難でした。川に沿った道も古くからありましたが、岩盤が川岸に...(2022年2月25日 文化財課)
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亀の瀬は数万年前から地すべりを起こしていたようですが、江戸時代以前に地すべりの記録はみられません。しかし、明治36年(1903)、昭和6年(1931)、...(2022年2月25日 文化財課)
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柏原市青谷付近から上流の大和川は左岸(南岸)の断崖が川に迫っており、青谷から下流では右岸の岩塊が川に迫っていたため、それぞれ道をつけることができませんで...(2022年2月25日 文化財課)
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江戸時代には舟運が盛んとなり、亀の瀬より下流を剣先船、上流を魚梁船が運行していました。亀の瀬は奇岩が多数露出し、滝もあったために船が遡ることはできません...(2022年2月25日 文化財課)
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平群郡で所領を得た片桐且元が、船で大坂へ米を運ぶために、慶長14年(1609)に亀の瀬の開鑿を行ったようです。しかし十分な開鑿ができず、その後も亀の瀬を...(2022年2月25日 文化財課)
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上宮聖徳皇子、竹原井に出遊でましし時に、竜田山の死人を見悲傷して作らす歌一首 家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ【巻3-41...(2022年2月25日 文化財課)
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『万葉集』に「恐(かしこ)の坂」、『日本書紀』に「懼坂(かしこのさか)」とあるのは、龍田道の峠付近のことではないかとされています。峠は亀の瀬のすぐ東にあ...(2022年2月25日 文化財課)
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孝謙天皇のあと淳仁天皇が即位しましたが、藤原仲麻呂を後ろ盾とする淳仁天皇と、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇の対立が表面化します。天平宝字8年(764)の藤原...(2022年2月25日 文化財課)
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聖武天皇のあと、娘の阿倍内親王が孝謙天皇として即位しました。孝謙天皇として龍田道を初めて利用したのは、天平勝宝元年(749)10月の智識寺行幸のときでし...(2022年2月25日 文化財課)
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『万葉集』巻9―1742・1743に、高橋虫麻呂の「河内大橋を独り行く娘子を見る歌」があります。「しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ(後略)」...(2022年2月25日 文化財課)
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神亀2年(725)10月に、聖武天皇は難波宮に行幸しました。この際に龍田道を利用し、竹原井頓宮を利用したと考えられますが、記録には残っていません。 ...(2022年2月25日 文化財課)