文化財課
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業務内容
- 文化財の調査及び保存に関すること。
- 指定文化財の管理及び指導に関すること。
- 文化財の愛護の推進啓発に関すること。
- 歴史資料館に関すること。
新着情報一覧
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付け替えの痕跡をたどる それでは、清麻呂の付け替え痕跡を実際にたどってみましょう。 スタートはJR東部市場前駅です。平野からここまで北西へ...(2017年10月30日 文化財課)
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もし付け替え工事がなかったら 歴史に「もし」はないと言われます。それはそのとおりなのですが、「もし、大和川の付け替えがなかったら、大和川はその後ど...(2017年10月30日 文化財課)
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高井田横穴群の北側で29基の古墓が検出されています。うち9基には、炭・灰を埋土とするものの骨蔵器がなく、火葬墓ではない、それに関係する遺構の可能性があり...(2017年10月27日 文化財課)
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付け替えの痕跡 和気清麻呂の大和川付け替え工事の痕跡は、今も残っているのでしょうか。 以前から、天王寺の茶臼山の南側にある河底池(こそこい...(2017年10月25日 文化財課)
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幕府の土砂留対策 幕府も大和川の洪水対策を行っていなかったわけではありません。堤防の補修工事などを行うとともに、大和川の付け替えが必要かどうか、万...(2017年10月25日 文化財課)
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宇佐八幡宮神託事件と清麻呂 奈良時代の中ごろ、称徳天皇は寵愛した道鏡とともに国を治めていました。ところが、神護景雲3年(769)に思いもよらないお...(2017年10月17日 文化財課)
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激しくなる洪水 江戸時代になって天井川化が進むとともに、洪水も多くなったようです。とりわけ、洪水は玉櫛川筋に集中していました。寛永15年(1638...(2017年10月17日 文化財課)
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「平成30年度文化遺産総合活用推進事業(文化庁)」の概要について
※今年度の事業者募集は締切りました。 「募集案内」の詳細等は、必ず文化庁ホームページで確認してください ...(2017年10月11日 文化財課) -
平尾山古墳群雁多尾畑支群内の標高約350mの南斜面、霊園の造成工事に伴う発掘調査によって、1号墳と3号墳の間から4基の骨蔵器を伴う火葬墓が発見されました...(2017年10月8日 文化財課)
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昭和58・59年(1983・84)に、市立第二体育館(現・オーエンス第二アリーナ)建設に先立って発掘調査が行われ、火葬墓と考えられる遺構が4基確認されま...(2017年10月8日 文化財課)
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田辺古墳群の西方約40メートルに位置する田辺古墓群は、田辺古墳群から継続する古墓群と考えられます。調査では9基の古墓が検出されていますが、このうち骨蔵器...(2017年10月8日 文化財課)
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天井川になった大和川 当館に、中甚兵衛の子孫である中九兵衛氏から寄贈された、延宝3年(1675)の「古大和川附換前水害下調図(堤防比較調査図)」が...(2017年10月8日 文化財課)
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和気清麻呂とは ところで、和気清麻呂とはどういう人物だったのでしょう。もっとも有名なのが、道鏡を天皇にするかどうかという宇佐八幡宮神託事件です。し...(2017年10月8日 文化財課)
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清麻呂の大和川付け替え 大和川の洪水が繰り返されることを憂えた和気清麻呂は、大和川の付け替えを考えるようになったようです。 ...(2017年10月1日 文化財課)
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荒れる山 川には水が流れるだけでなく、水とともに土砂やゴミなども流れてきます。旧大和川では、13世紀ごろに川の流れを固定したため、運ばれてきた土砂...(2017年10月1日 文化財課)
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奈良時代の大和川 それでは、和気清麻呂が大和川の付け替えを決断するほど、奈良時代の大和川は洪水を繰り返していたのでしょうか。『続日本紀』から、洪水...(2017年9月25日 文化財課)
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流路を固定する 人口が増えると、水田や畑などの耕作地を広げなければなりません。そこで、川の近くの低湿地も耕作地として開発するようになります。しかし...(2017年9月25日 文化財課)
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奈良時代の大和川 延暦7年(788)、和気清麻呂という人物が、大和川の付け替えを試みたことが『続日本紀』などに記されています。江戸時代の大和川付け...(2017年9月18日 文化財課)
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どうして天井川になるのか? 川底が、まわりの土地よりも高い川を天井川といいます。川の流れによって運ばれてきた土砂が堆積し、川底が周囲よりも高くなっ...(2017年9月18日 文化財課)
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歴史資料館に隣接する、史跡高井田横穴公園をご案内します。 史跡高井田横穴公園パンフレット 各横穴は、普段は内部に入ることができませんが、事...(2017年9月5日 文化財課)
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「河内大橋」を想う 竜田道で山越えをすると、眼下に大阪平野が広がります。この景色は、今でも見る者の心をなごませますが、奈良時代にはもっと美しい景色...(2017年7月25日 文化財課)
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知識の活躍 「河内大橋」を改修したのが知識であったことから、架橋したのも知識だったのではないかと考えました。「家原邑知識経」にみえる知識の名は、伯...(2017年7月17日 文化財課)
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行幸路の変遷 奈良時代には、竜田道から渋河道が、平城宮から難波宮への行幸路として利用されました。竜田道は、もともと竜田大社の前を通って大和川右岸を...(2017年7月9日 文化財課)
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河内大橋はだれが架けたのか? それでは、これほど大きな立派な橋を造ったのはだれだったのでしょうか。古代には、橋は基本的に国が架けることになっていま...(2017年7月2日 文化財課)