文化財課
-
業務内容
- 文化財の調査及び保存に関すること。
- 指定文化財の管理及び指導に関すること。
- 文化財の愛護の推進啓発に関すること。
- 歴史資料館に関すること。
新着情報一覧
-
船橋遺跡の調査より 1997年に、藤井寺市北条町で左岸堤防を断ち割って断面調査が実施されています。これは、水はけの悪い北条地区の雨水を排水するため...(2016年9月19日 文化財課)
-
八尾南遺跡の調査より 2006年、八尾市若林町で大和川から取水するための三箇用水樋の撤去に伴って、右岸堤防の調査が実施されました。やはりつけかえ当...(2016年8月28日 文化財課)
-
発掘調査成果からみた大和川つけかえ工事 大阪平野を東から西へと流れる大和川。大和川の両岸には、大きな堤防があります。この堤防は、私たちを洪水から守...(2016年8月28日 文化財課)
-
玉手山古墳群の被葬者集団 それでは、玉手山古墳群を造営した人たちは、どのような集団だったのでしょうか。大和の政権と対立していたのか、支配されていた...(2016年7月26日 文化財課)
-
その他の古墳 玉手山古墳群には、100mクラスの前方後円墳よりもやや規模の小さい60~80mクラスの前方後円墳がみられます。また、さらに規模の小さ...(2016年7月21日 文化財課)
-
玉手山7号墳 玉手山7号墳は、前方部を西に向けた全長110mの前方後円墳です。後円部は柏原市立玉手山公園内にあり、前方部は安福寺の境内にあります。...(2016年7月12日 文化財課)
-
玉手山1号墳 玉手山1号墳は、丘陵の北端に位置する前方後円墳です。前方部を北に向け、全長は約110mと推定されています。これまでに関西大学、大阪府...(2016年7月5日 文化財課)
-
玉手山3号墳 玉手山3号墳は、丘陵北寄りではもっとも標高の高い位置にあり、前方部を西南西に向けた前方後円墳です。江戸時代には「松山」と呼ばれ、後円...(2016年6月21日 文化財課)
-
幕末の一揆 幕末の大きな社会変動は、一農村である国分村にも少なからぬ影響を与えたようです。村の有力者は、海岸警備や長州出兵などに伴って、幕府に多額...(2016年6月10日 文化財課)
-
立教館の創立 国分村出身の柘植常煕(本名卓馬、葛城とも)が中心となって開いた私塾が立教館です。常煕は、文化元年(1804)に国分村で生まれ、幼少か...(2016年6月8日 文化財課)
-
玉手山9号墳 それでは、玉手山古墳群の首長墳と考えた玉手山9号墳、3号墳、1号墳、7号墳の順に、各古墳を少し詳しく紹介していきたいと思います。 ...(2016年6月6日 文化財課)
-
洪水との戦い 田輪樋の設置によって開かれた水田を守るために、芝山の東には柳原堤あるいは東堤と呼ばれる堤が築かれ、これらの水田が洪水による被害を受け...(2016年6月6日 文化財課)
-
新町と国分船 田輪樋が設置されたのと同じ寛永年間(1624~44)に、村の北側の大和川左岸に堤が築かれました。この堤は、風戸堤、西堤、新町裏堤など...(2016年5月30日 文化財課)
-
一系列か複数系列か 玉手山古墳群の分布図を見ていると、1~4号墳、5~7号墳、8~10号墳の三つくらいのグループに分けることができるように見えます...(2016年5月30日 文化財課)
-
田輪樋 国分村の北を流れる大和川は、芝山を迂回して大きく北へ湾曲しています。当然ながら、芝山の南側の堤防への水当たりが強くなり、芝山の南側は古くか...(2016年5月23日 文化財課)
-
玉手山古墳群の年代 近年は埴輪の研究が進み、ある程度の量の埴輪が確認できれば、おおよその年代がわかるようになりました。古墳の場合、埋葬施設が未調査...(2016年5月23日 文化財課)
-
玉手山古墳群の範囲 玉手山丘陵に展開する玉手山古墳群ですが、その範囲をどこまでと考えればいいのでしょう。一般には、北端の玉手山1号墳から南は駒ヶ谷...(2016年5月16日 文化財課)
-
祭りで暴れる若者 国分村の人が、町奉行に申し出た一通の嘆願書があります。差出人は、定四郎が幼少のため代理として周助という人物によるものとなっていま...(2016年5月16日 文化財課)
-
柏原市では、柏原市立歴史資料館及び史跡高井田横穴公園の円滑な運営と効率的な活用を図り、郷土の文化的遺産を広く公共の利用に供し、市民の教育文化の向上に資す...(2016年5月11日 文化財課)
-
夏祭りをしたい! 天保2年(1831)に、木屋徳右衛門から預かったという冊子があり、そこにおもしろい話が書かれています。村の若者がこれまでなかった...(2016年5月6日 文化財課)
-
玉手山古墳群とは? 柏原市の南西部に、南北に長くのびる玉手山丘陵があります。西を流れる石川と平行し、北は大和川と石川の合流点近くで終わります。東は...(2016年5月6日 文化財課)
-
村人の生活 みなさんがもっとも知りたいのは、江戸時代の村人がどんな生活をしていたのか、ということだと思います。しかし、それを知ることのできる史料は...(2016年4月27日 文化財課)
-
河内国分寺はどこに? 河内国分寺(かわちこくぶんじ)があったので国分(こくぶ)という。それは昔から語り継がれて、江戸時代の人たちも知っていたようで...(2016年4月19日 文化財課)
-
国分村の人口など 国分村を治めていた領主は、江戸時代のはじめには幕府領と大坂城代や京都所司代の支配を繰り返していました。たとえば、寛永8年(163...(2016年4月11日 文化財課)
-
国分村の交通 国分村の中心部を東西に奈良街道が通っていました。江戸時代になると、この奈良街道に沿って、村は東西にのびていきました。奈良街道は大和街...(2016年4月4日 文化財課)